「現代都市の文脈としての都市計画遺産」(『建築雑誌』2015年5月号)

5月 7, 2015 by · Leave a Comment
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『建築雑誌』2015年5月号(特集:都市史から領域史へ)に「都市計画遺産研究会」の紹介記事を寄稿しました(執筆:中島直人)。以下、全文です。

現代都市の文脈としての都市計画遺産

都市計画遺産研究会は、都市計画史研究の活性化を目的に、2010年度より活動している。我が国の都市計画史研究者の第一世代は、1970年代後半から80年代前半にかけて都市計画史研究会を組織し、市区改正条例百周年にあたる1988年の国際都市計画史学会(IPHS)の東京開催を経て、1990年代初頭までにいくつかの重要な著作を成果として残した。その後も、都市計画史分野では継続して一定数の論文が発表されたが、方法論や対象についての飛躍的な展開は見られなかった。2000年代半ばになって、都市計画史の新たな叙述や役割を開拓しようとする若手の研究者が著作を発表し始めた。そうしたいわば「第三世代」の30代、40代の都市計画史研究者で組織したのが都市計画遺産研究会である。

都市計画遺産研究会は、都市計画史研究とまちづくり、都市デザイン、都市計画の現場との接続を志向し、「都市計画遺産(planning heritage)」という都市空間の捉え方の確立を目標として掲げている。現代都市の最大の課題である都市空間ストックのリノベーションの基盤として、現在の都市空間への認識をさらに豊かにしていく必要がある。私たちの眼前には、とりわけ戦後に大きく変化した都市空間が広がっているが、その殆どは都市計画の影響を受けて形成されてきたものである。これからの都市計画史研究の重要な役割は、都市計画を抽象化された技術体系や自己完結した個別スポット事業としてではなく、領域的な空間履歴として把握した上で、その履歴の海の中から、都市計画の思想、技術、社会、経済、文化的視点からの多角的なアプローチによって、まちづくりに生かすべき地域文脈を共有可能なかたち(それを「遺産」と呼ぶ)で抽出してみせることである。東日本大震災直後にwikiを利用して緊急開設した「三陸海岸都市の都市計画/復興計画史アーカイブ」は、その試行であった。現在、『都市計画遺産アトラス』という書籍の刊行を準備している。

また、都市計画遺産としての日本の都市空間、市街地形成の特質を理解するためには、欧米との比較に留まらず、欧米とは異なる都市の原型、履歴を有する諸国の都市計画史を第三局においた「三点測量」による立体的な定置が必要である。研究会の具体的な取り組みとしては、近年、組織的な活動を開始している中国の都市計画史研究者たちとの交流・協働を推進している。2013年10月に東京にて開催した日中都市計画史研究セミナーは、第二回を2015年3月に中国の浙江大学にて開催した。また、2019年の都市計画法制定百周年を節目として、海外への日本、そしてアジア都市計画史の発信力を強化するために、研究会メンバーだけでなく第一世代以降の研究者にも広く声がけし、都市計画史研究者の会(Planning Historians’ Meeting)を運営し始めている。

 

 

Young Scholars Seminar of Planning History Study in China and Japan

3月 26, 2015 by · Leave a Comment
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2015年3月21日、中国・杭州にて、浙江大学が主催し、都市計画遺産研究会も協力するかたちで、「日中都市計画史若手研究者交流研究会」(Young Scholars Seminar of Planning History Study in China and Japan)が開かれました。中国からは5つの研究発表がありました。日本側は中島直人(慶應義塾大学)、初田香成(東京大学)、中島伸(東京大学)が発表し、その後、研究のテーマ、枠組み、方法についてのディスカッションを行いました。 Whats my ip

第一回都市計画史研究者の会(Planning Historians’ Meeting)開催のお知らせ

10月 1, 2014 by · Leave a Comment
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第一回
都市計画史研究者の会(Planning Historians’ Meeting)開催のお知らせ

日本の都市計画にとって重要なアニバーサリーである2019年=都市計画法制定100周年が近づいています。2019年は日本の都市計画の省察と展望の良い機会となるはずですが、その際、都市計画史研究が大きな役割を果たすと考えられます。日本の都市計画はどのような個性を持ち、どのような成果を残し、これからどこへ向かうべきなのか、そうした問いに答えなければいけないのは、都市計画の過去、現在、未来をつなぐ都市計画史研究者です。
近年、日本都市計画学会の学術講演会はもちろんのこと、国際都市計画史学会(IPHS)の大会でも日本人研究者による研究発表が継続的に活発に行われてきており、都市計画史研究の蓄積、広がりが確かに見られるようになってきています。5年後に迫った2019年に向けて、都市計画史研究者は個々人の研究を引き続き充実させつつ、都市計画史研究分野全体として、さらなる発展、活性化の戦略を持つべき時期に来ています。日本の都市計画の足跡をさらに広く深く追いかけるとともに、欧米中心の従来の都市計画史を相対化する真の意味での国際的な視野と発信が、日本の都市計画史研究者に期待されています。
今回、広島での日本都市計画学会学術講演会開催の前日という機会に、都市計画史研究者の集まりを企画しました。主な議題は「2019年に向けた都市計画史研究の展望」です。各人が抱える研究テーマを今後、どのように発展させていくのか、あるいは、都市計画史分野全体としてどのような研究の戦略がありうるのか、参加者が簡単なメモを持ち寄り、フランクに議論する場としたいと考えております。IPHSの次回2016大会(デルフト工科大学)での企画や、次々回2018大会の日本開催計画なども、積極的に話題としてとりあげます。
長年、広島の都市計画史を探求してこられた石丸先生の特別レクチャーも予定しております。
皆様のふるってのご参加をお待ちしております。
■日時:
2014年11月14日(金)15時~18時半
※なお、会合後、19時より会場近くの居酒屋で懇親会を予定しております。
こちらも(あるいは日中の都合がつかない方はこちらだけでも)、ぜひ、ご参加ください。
■会場:
安芸リーガルビル会議室
広島市中区上八丁堀8-14 安芸リーガルビル2階
最寄駅:広島電鉄9系統「女学院前」駅 徒歩1分
電話番号:082−502−0428
■主催:
都市計画遺産研究会(日本都市計画学会共同研究組織)
 http://www.planning-heritage.net/
■プログラム:
・特別レクチャー 「広島県・市による平和構築・人材育成事業は有効か/広島の復興を海外にどう伝えるか、留意すべきことは何か(仮)」(石丸紀興先生)
・2019年に向けた都市計画史研究の展望(参加者全員によるディスカッション)
※参加者はA4・1枚程度の簡単なメモをご用意ください。
※必要部数(参加人数)については確定次第、お知らせいたします。
■参加者(定員25名)
都市計画史の研究者および研究者候補の学生
 ※現時点での参加予定者
・秋本福雄
・石丸紀興
・加嶋章博
・小林敬一
・佐野浩祥
・津々見崇
・中島 伸
・中島直人
・中野茂夫
・西成典久
・初田香成
・松原康介
・山口敬太
・渡辺俊一
■参加申し込み・問い合わせ先
メールにて、幹事まで。
幹事:中島直人(慶應義塾大学、都市計画遺産研究会)
naoto@sfc.keio.ac.jp
※懇親会への参加の有無についても、合わせてお知らせください。
 ※会場、懇親会等の予約の都合上、10月20日頃までにお願いします。

前現代委員会、報告書完成。

1月 6, 2014 by · 前現代委員会、報告書完成。 はコメントを受け付けていません
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2011-2012年度に活動した日本建築学会前現代都市・建築遺産計画学的検討【若手奨励】特別研究委員会の報告書、ようやく印刷できました。以下、目次を掲載しておきます。

報告書本体は、学会にて閲覧可能です。今後、増刷も検討しています。

 

・グラビア 前現代期の都市・建築
・目次 ・年表 前現代の都市・建築
・分布図 本報告書の対象
・はじめに

本論

【前現代の建築を見る視点1】
・前現代建築の建築的特徴が生みだす活用価値について  大阪都心部を事例として  高岡伸一(大阪市立大学/高岡伸一建築設計事務所)
・前現代建築の対象領域の拡がりとその価値に関する試論 1950 〜 1970 年代の6 物件を通じて  倉方俊輔(大阪市立大学)
・共同建築から雑居ビルへ   ―都市建築としての戦後ビル建築史―  初田香成(東京大学・幹事)

【戦災復興期の基盤整備と都市施設】
・東京都戦災復興区画整理の街区設計に見る区画整理設計技術の特徴  中島伸(練馬まちづくりセンター/東京大学)
・社会広場の建設とその遺産的価値  東京戦災復興区画整理事業で試みられた都市デザイン  西成典久(香川大学)
・鉄道高架下における店舗形成と変容過程 -前現代神戸の盛衰をめぐって  村上しほり(神戸大学)
・国鉄民衆駅の誕生と展開%E

第2回都市計画遺産セミナー報告 中国の都市計画史と日本の都市計画史 -学術コラボレーションの可能性を求めて

中国の都市計画史と日本の都市計画史-学術コラボレーションの可能性を求めて

 

日時:2013年11月9日(土)13時~15時
会場:法政大学田町校舎T413教室
主催:都市計画遺産研究会(日本都市計画学会共同研究組織)
発表者:李百浩(東南大学)、侯丽(同済大学)、傅舒蘭(浙江大学)
コメンテーター:渡辺俊一(東京理科大学)、中野茂夫(島根大学)、中島直人(慶應義塾大学)、中島伸(東京大学)
司会:初田香成(東京大学)
記録:田中暁子(後藤・安田記念東京都市研究所)

●趣旨説明(中島直)
都市計画遺産研究会は都市計画史研究の活性化を目的とした若手の集まりである。昨年、中国の都市計画学会の中にも都市計画史の委員会が設立された。都市計画史研究分野において中国と日本で一緒に何が出来るか。今までは欧米と日本との比較が多かったが、中国を含む三点間で比較することで立体的にみることが出来ると思う。

●発表1「中国の都市計画研究・教育の現状と都市計画史」(傅)
中国では、2011年以前は城市規劃(都市計画)学科は設置されておらず、建築学科の下の二級学科(コース)扱いだった。2011年以降「城市規劃」が一級学科になった。現在、175の大学に都市計画のコースが置かれている。国が指定している10の主要授業科目の中に「都市発展・計画史」がある。中国城市規劃学会は1987年に建築学会から独立した。11の小委員会(学術委員会)があり、昨年、都市計画史の委員会が設立された。中国の歴史研究では、古代・近代・現代の明確な区分が共有されている。古代と近代の区分は1840年のアヘン戦争、近代と現代の区分は1949年の中華人民共和国の成立であり、都市計画史もそれに従っている。中国では、都市史・都市計画史・都市保全・建築史研究が混在していてピュアな都市計画史研究者は少ない。科研費がとりにくいことや、地図が国家秘密となっていて入手しづらいことがネックとなっている。

●発表2「近代以降中国における「城市規劃」用語の変遷」(李)
都市計画の歴史資料(学術著作、翻訳書、政府広報、計画書類)から”city planning”に対応する言葉を抽出した。城市規画、都市改良、都市設計、都市計画、都市規画、市政計画、城市設計、城市計画、都市規劃、市区規劃、都市営建、都市計劃、城市計劃など、全46語があった。cityに対応するのは主に城市と都市の2つ、planningに対応するのは主に規画、設計、計画、計劃、規劃の5つである。主要な用語で時代を区分すると、「城市規画」(1913)、「都市計画」(1918-1928)、「城市設計」(1928-1934)、「都市計劃」(1934-1956)、「城市規劃」(1956-)となる。中国では、欧米の科学技術を導入する際、中国の伝統文化に基づく学習・再構成のプロセスを経る。”City planning”についても、既存の漢字に新しい意味を与えて新しい概念を表現した。「規劃」は近代以前の中国において最も多く使用されてきた用語である。一方で、「計画」は日本からの逆輸入であった。

●発表3「The Unplanned Path of Chinese Planning Schools」(侯)
中国では、都市計画を学ぶ学部生が3万人、修士課程が3660人、博士課程が436人いる。この10年で急激に増えた。中国の都市計画教育史は、1952年以前:萌芽期、1952年から1960年:第一次ブーム、1960年代から70年代中ごろ:低迷期、1970年代から80年代:回復期、1990年代:改革期、2000年代:繁栄期と画期できる。最初の独立した都市計画プログラムは1952年に同済大学に設立された。1960年代は文化大革命で失われた時代である。1970年代は都市計画が職能として復活し、南京大学、北京大学、中山大学、杭州大学(後に浙江大学に吸収)で地理学を中心とした都市計画コースが創設された。1990年代は改革の時期で、デザインスタジオが重視されるようになった。現在、中国では都市計画関係のプログラムが300以上あるが、教育資源の問題で、トップとボトムの差が大きくなっている。

●コメント(中野)
かつて中国と日本の都市計画史が交わった点は近代以降2つあるのではないか。一つは日本の中国侵略期に中国の都市計画をかなりやっていた時代。もう一つは直接的な関係ではないが、戦災復興の際、日本の戦時中の都市計画の影響がかなりあったのではないか。その後、中国では特に土地所有の違いから、日本とかなり異なる都市計画体系が進んでいったが、北京オリンピック以降、保全・保存が俎上に上がるようになった。そこに研究の接点があるのではないか。

●コメント(中島直)
中国の都市計画史を通して日本の都市計画の特徴に気付かされるということも大事である。例えば、日本では1960年代に都市計画の専門学科が出来たが、その後は、中国と違い、都市計画の専門コースが数多く設立されるということはなかった。専門家を養成できなかったわけだが、1960年代、70年代の都市開発の時代をのりきった。専門家がいなくても、都市をつくれたのはなぜだろうか。

●コメント(渡辺)
都市計画研究をなぜやるか。自分のやってきたことは、国際的に比較したり歴史的に眺めてみたりすることで、都市計画が何なのかを理解することであった。国際比較も歴史研究も同じ関心に基づいている。日中比較で興味深いのは、中国は官僚主義だがプロフェッショナリズムが成立している点。100年前は汚かったけれども、今はきれいになりつつある東アジアの都市計画は、世界スケールで見てもとてもユニークである。都市計画のストーリーを検証してみたい。

●コメント(李)
中国の都市計画史研究はスタートが遅く、まだ若い研究分野である。1949年から1980年までは、近代(中華民国)の研究はあまりできなかった。今後、文化の多様性・歴史を大事にした都市をつくるという世界的潮流の中で、都市計画史研究は大事である。研究の方法、資料収集、厳密な分析という点でも情報を交換していきたい。

●コメント(侯)
中央官僚が引っ張っていたと言う点は似ている。というのも、中国は1949年以降ずっと計画経済のソ連を勉強していたからだ。今、中国の手本の一つは東京。中国もそろそろ都市化が終焉を迎えている。上海市の再開発の際に参考にしている。お互いの国の歴史・経験、エピソードの共有が大事である。

●コメント(会場から、渡部與四郎元都市計画学会会長)
1989年に日中交流の協定を結んだ。現在、日本・中国の関係を修復したいと思っている。例えば地球環境問題への対応を含めて都市計画をどうするか。そういう具体的な話をしたらいいと思っている。

●まとめ(中島伸)
今回が日中交流の端緒であり、互いにバックグラウンドを共有できたと思う。昨日のプレワークショップでも感じたが、都市計画史研究者として史料に向かう眼差しは、国が違っても同じである。

第2回都市計画遺産セミナー 中国の都市計画史と日本の都市計画史 学術コラボレーションの可能性を求めて

10月 24, 2013 by · Leave a Comment
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来る11月9日、法政大学で開催される日本都市計画学会学術講演会の会場にて、下記のワークショップを開催します。3月にアメリカのアラン・プラッタス氏(イェール大学教授)を招聘して開催した第1回都市計画遺産セミナーに続く、第2回都市計画遺産セミナーとなります。中国から3名の都市計画史研究者を招聘し、研究を発表して頂きます。皆様のご参加をお待ちしております。

中国の都市計画史と日本の都市計画史
-学術コラボレーションの可能性を求めて

主催:都市計画遺産研究会(日本都市計画学会学術交流組織)

日時:2013年11月9日(土)13時-15時

会場:法政大学田町校舎T413教室
※WS参加費用は無料ですが、学術講演会参加費が必要です。

登壇予定者
中国の都市計画史研究者(発表者)
・李百浩(東南大学教授)
・侯丽(同済大学副教授)
・傅舒蘭(浙江大学講師)
日本の都市計画史研究者(コメンテーター)
・渡辺俊一(東京理科大学嘱託教授)
・中野茂夫(島根大学准教授)
・中島直人(慶應義塾大学准教授) 他

趣旨
ストック型の成熟社会における都市計画史の役割とは一体何だろうか。従来の日本における都市計画史研究は、近代都市計画のコンセプトを生み出した欧米を原点とし、我が国における思想や技術の伝播や理解、普及、変容の度合いに関心を注いできた。しかし、これからの都市計画史研究は、欧米-日本-もう一国という「三角測量」により、豊かな計画文化の世界を描き出す方向を目指したい。本WSでは、近年、都市計画学会内に都市計画史の学術委員会を設置し、都市計画史研究を推進し始めている中国から気鋭の都市計画史研究者を招聘し、1用語と概念、2教育と職能、3遺産と保全の3つのテーマについて、日本と中国との都市計画史研究のコラボレーションの可能性を探る。

下記に本WSの案内がございます。
http://www.cpij.or.jp/com/ac/WS-2013.pdf

【アトラス05】水島の住区基幹公園群

9月 26, 2013 by · Leave a Comment
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現在、瀬戸内工業地域の中核として知られる水島(倉敷市)の工業化がはじまったのは、戦時中のことである。昭和17年に三菱重工業株式会社水島航空機製作所が建設されるとともに、厚生地区が造成された。高度経済成長下、水島は新産業都市の指定を受け、重化学工業の促進が図られたが、一方で環境汚染が本格化し、公害対策が課題となった。水島では、緩衝緑地をはじめとする公園・緑地の整備が先進的に進められたが、そのなかでも、ひと際特徴的なのが最初に市街化された水島地区に数十カ所にわたって開設された住区基幹公園である。
 水島は、現在倉敷に合併されているが、戦前は連島町に属しており、1940(昭和15)年6月24日に旧都市計画法が適用された。1942年4月9日に、連島の都市計画街路と土地区画整理が計画決定され、翌年に事業決定された。連島の都市計画街路は、幾十にも重なった放射環状の壮大な都市計画であった。その実現にあたって土地区画整理区域も約七〇〇万坪の広域にわたって計画されていた。けれども実際には、その中心部にあたる厚生地区だけが「水島第一土地区画整理事業」として1943-51年にかけて優先的に整備された。
さて、その厚生地区には、工場の従業員向けの社宅や寮が多数設けられ、学校や病院、体育館といった厚生施設が配置されるとともに、生活を支える商店街が形成されていった。その一方で、水島第一土地区画整理事業によって、多数の公園用地が確保されていた。こうした公園が計画された背景には、工場の労働環境の改善にあたって保健・衛生が重視されつつあった当時の時代背景があったと考えられる。この保留地こそ、後に公園用地として使われることになる。
連島が倉敷市へ合併されたのを契機に、都市計画公園の整備が本格的にはじめられた。昭和31年7月10日、高橋勇雄倉敷市長からの申請を受けて、岡山都市計画地方審議会が開催されており、同年9月21日に「倉敷都市計画公園追加並びに連島都市計画公園に対する名称及び番号の変更について」が告示された。そのときに添付された「倉敷都市計画公園配置図(その二)」と「設計予想図」は、公園の配置図と設計図になっており、それが現在の住区基幹公園の原型となったと考えられる。
 「倉敷都市計画公園配置図(その二)」には、44公園が記されており、そのうち水島中央公園をのぞく、43公園が小規模な児童公園として計画されていた(旧称「児童公園」は現在の「街区公園」に該当)。水島の住区基幹公園は、戦前の「公園計画標準」にもとづいて用地が確保されていたため、小規模な公園がほとんどであった。このため、公園の整備にあたって複数の公園を合併して一つの公園にするといった計画の見直しが一部でなされたが、それでも一般的な街区公園よりも小規模な多数存在している。現在の計画標準からしてみると狭いものであるかもしれないが、多数の公園が住宅地内にくまなく配置されているという特徴的な公園群なのである。
 現存している住区基幹公園は、四方を街路で囲われた公園が大半を占めている。公園内の設備は当初、砂場、便所、飲用水栓、花壇、東屋などが予定されていたが、時代背景とともに変更が加えられており、現在はバラエティに富んでいる。しかしながら、一部にはほとんど使われていない公園も散見されるといった課題が、中心市街地の空洞化とともに顕在化している。(中野)

【参考文献】
(1)国立公文書館所蔵「公文雑纂」(第123巻・都市計画14、昭和17年4月9日)所収「岡山県連島都市計画街路決定」「岡山連島都市計画土地区画整理決定」。
(2)建設省計画局都市計画課編「都市計画及び都市計画事業の決定書類等・岡山県」(国立公文書館所蔵、昭和31年7月19日)。
(3)岡山県『水島のあゆみ』(同発行、1971)。

図版出典
(1)国立公文書館所蔵「公文雑纂」(第123巻・都市計画14、昭和17年4月9日)
(2)建設省計画局都市計画課編「都市計画及び都市計画事業の決定書類等・岡山県」(国立公文書館所蔵、昭和31年7月19日)。

【アトラス04】 一人施行区画整理による良好な郊外住宅地 –常盤台の計画住宅地-

8月 12, 2013 by · Leave a Comment
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一九二三(大正十二)年の関東大震災後、東京の郊外への都市拡張が本格化する中で、各私鉄の鉄道会社は乗降客数の増加を狙い、沿線の住宅地開発を行っていた。板橋区常盤台は、一九一四

(大正三)年より開業した東武東上線を運営する東武鉄道によって開発された住宅地で、元は貨物の操車場を予定して用地確保していた駅前の土地二七haで計画された。当地では、土地買収からそのまま分譲という形を採らず、都市計画法十二条の規程に基づき区画整理を実施した。当初は、単純なグリッドパタンによる区画整理を実施しようとしていたが、理想的住宅地の建設を掲げる東武鉄道の社長の意向で、内務省、都市計画東京地方委員会の指導により設計を白紙に戻して、街区設計が行われた。


図1 常盤台のプロムナード(筆者撮影)


図2 昭和11年 常盤台住宅地案内図(図版出典:参考文献2)


東武鉄道社長の理想的住宅地建設と、内務省のこれまでに蓄積した住宅地開発技術の実践の場として、両者の意向が合致し、この住宅地の基本設計は小宮賢一が手がけた。小宮は当時内務省に入省したての若手技師であり、菱田厚介、北村徳太郎、本多次郎らの上司が設計指導にあたったと言われている。ここで、小宮はそれまで大学で学んできた欧米住宅地の設計手法を活かし、それまでの住宅地開発ではまだ日本では見られなかった手法をふんだんに採り入れた設計を試みた。越沢によると、東京で当時計画されていた五〇〇m間隔で東西南北に計画されていた細道路網計画について、小宮は上司から「この予定線には捉われなくてよい」と指示があったと言う。この指示がどのような根拠で出された、またその後実現に向かったのか詳しいことは分らないが、そうした特殊な状況において、実現した例であることは確かである。

 

具体的に設計内容を見てみると、まず宅地規模は百坪程度とゆったりとした敷地規模を確保し、後に建築協定の原型となる建築規約を設けることで、良好な住宅地の維持、更新を担保した。街路計画を見ると、住宅地をほぼ一周する環状道路(用地買収できなかった地区があるため完全な一周ではない)によるプロムナードと駅前ロータリーから延びる放射道路の組合せで、地区の街路が大きく形成しており、当初のグリッドパタンによる街区構成とは全く異なる地区設計を行っている。このプロムナードは曲線を大胆に採り入れて中央には植樹帯が設けられ、特徴的な街路景観を生み出している。また、欧米の住宅地設計で開発されたクルドサックによる袋地の設計、ロードベイによる沿道緑地といった手法の導入も行われた。また、クルドサックの袋地には、災害非常用のために路地空間も設計された。このように、様々な空間技法が区画整理内で実施されたことで、常盤台は日本の戦前の住宅地設計において希有な空間形成の実現を可能にした。これは、グリッドパタンを決して良しとしない内務省の街区設計に対する考え方が端的に表れていると言えよう。常盤台は、鉄道会社が土地を買上げ、一人施行による区画整理が実施されたことで、単一土地所有者の強い意向を反映し、他の組合施行では実現できない特徴的な市街地形成を行うことが可能となった。また、可能であったからこそ、常に情報を仕入れ、最新の欧米の技術等も踏まえていた技師たちによるこれまでにはない、空間づくりを都市計画に基づき実践することが出来た貴重な例と言える。

 

【参考文献】

(1)越沢明「東京都市計画物語」日本経済評論社、一九九一年

(2)板橋区教育委員会生涯学習課文化財係「常盤台住宅物語」文化財シリーズ第八五集、板橋区教育委員会、一九九九年

執筆:中島伸

【アトラス03】お願いだけのまちづくり -岡山中心市街のセットバック空間-

岡山の中心市街地を歩いてみると、セットバックされた歩行者空間がつづいていることに気づかされる。岡山駅前のメインストリートである桃太郎大通りをはじめ、市役所筋、県庁通り、西川緑道公園筋という市街地の主な通りに沿って建物がセットバックされている。

これは、昭和四六年三月に「岡山市の都市美造成のための景観構想計画」に基づくものであるが、このプロジェクト自体、一般にはあまり知られていない。この計画は、「市民が街路を散策し、あるいは建物の窓から街路を眺めたときに、この視角の中で、都市をいかに快適に、又豊かに感じるかのための都市のイメージを作る」ことを目的としていた。その根底には、ヒューマンスケールにあわせた都市を創出しようという意図があったという。発案したのは、岡山市の初代建築指導課長の谷義仁であった。谷を中心とする岡山市の担当職員たちは、①歩行者空間・公共空間を確保するため、前面道路境界からの建築物のセットバック、②セットバックによってうまれた空間の緑化誘導、③建築物に付属する広告物・看板等の色彩・デザインの調整等の三項目について建築主に「お願い」することにした。

ところで、中心市街地でセットバックを行う場合、通常、総合設計制度が用いられる。その場合、セットバックによって良好な歩行者空間を設けた見返りとして、容積の緩和といういわゆる「ボーナス」が与えられることになる。ところが岡山市では、ボーナスの付与もなしに、ただ「お願い」するだけで、セットバック空間の街並みが実現したところに特徴がある。

さて、実際にセットバックを行うにあたって、建築計画があったいくつかの建物に対して依頼したものの、営業面積に直接影響を与えることから交渉は難航した。そこで谷が目をつけたのが、当時、山陽新幹線の開業にあわせて出店を計画していた高島屋であった。高島屋の店舗予定地は、桃太郎大通りと市役所筋が交差する角の一等地であり、岡山市の玄関口といってよい場所であった。セットバックによるまちづくりの一丁目一番地といってよい高島屋に対しては、岡山市長の岡崎平夫もみずからお願いに出向き、理解を求めた。その結果、高島屋はセットバック第一号として昭和四八年五月一九日に開業した。建築家・村野藤吾が設計した岡山高島屋店は、セットバックによる歩行者空間の起点として、現在まで岡山駅前のシンボル的なデパートとなっている。

この谷の目論見は見事にあたり、高島屋につづけとばかり、つぎつぎとセットバックの依頼を受ける建物が増加していった(表1)。セットバックは市役所筋と県庁通りからはじめられ、特に岡山駅から市役所に向かう通り沿いには、良好な歩行者空間が創出された。昭和五一年からは西川緑道公園筋で、昭和六一年からは桃太郎大通りでそれぞれセットバックが開始された。一方で、総合設計制度によるセットバックも行われるようになり、現在のところ市役所筋の五棟、県庁通りの一棟、桃太郎大通りの一棟が該当している。

実際に、これだけ多くのセットバックを「お願い」するにあたって、岡山市では各通りの幅員や特性にあわせたセットバック距離の基準が設定されている(表2)。なかでももっとも高い基準となっているのが市役所筋であり、一階では五メートルものセットバックが求められている。また、西川緑道公園で建物の高さにあわせてセットバック距離を変えるといった配慮を行っているほか、桃太郎大通りでは、おいでんせえ広場のまわりで間口にあわせてセットバックの距離を定めている。このように各通りの特性にあわせて基準が設定したことで、セットバックを容易にし、多くの建物で実現したのである。

ところで岡山のセットバックの形状についてみてみると、三つのタイプがあることがわかる。①建物全体をセットバック、②一階部分のみをセットバック、③ピロティに大別することができる。けれども、そのなかには複合的なタイプも存在しており、例えば、建物全体をセットバックしながらピロティを設けるなど、多種多様な空間となっている。また一方で植栽の配置といった使い方は所有者に委ねられており、一貫性のない印象を受ける。このように連続性のない雑多な建物群が積み重ねられてできたセットバックの空間は、歩行者空間としての魅力を見えにくくしているともいえる。けれども岡山の中心市街地には、「お願い」という建築主の自主性に委ねた、ほとんど例をみない都市計画手法によって、たしかに良好な歩行者空間がひろがっているのである。

【参考文献】

(1)井上亮・中野茂夫「おねがいだけの街づくり〜戦後岡山市街地における都市計画の独自性に関する史的研究その1〜」(日本建築学会中国支部、二〇一三年三月)

(2)井上亮・中野茂夫「戦後岡山市街地のセットバック形状に関する研究〜戦後岡山市街地における都市計画の独自性に関する史的研究その1〜」(日本建築学会中国支部、二〇一三年三月)

執筆:中野茂夫

【アトラス02】名古屋の百m道路 戦災復興による広幅員街路

第二次世界大戦で、名古屋市はその市域の四分の一を焼失するという甚大な被害に見舞われたが、敗戦後これを契機とした理想的な都市建設を目標に、復興計画を立案した。復興事業では、旧市街地を中心として、当初四四〇六.六haという当時の市域の約二七%に相当する範囲で計画され、①中心市街地を根本的に改造すること、②罹災地区の復興だけでなく、関連地区を含めて総合的に計画すること、③副都心の設定を計画すること、④特に保健、防火、防災に留意すること等が、基本方針として掲げられた。復興事業は、昭和二一年から昭和六一年にかけて行われ、昭和二四年に財政面から事業区域の変更が行われ、焼け残り家屋の集まる地区が除外された。最終的に名古屋都市計画事業復興土地区画整理事業は、名古屋市長を施行者として、四八の工区からなる施行面積三四五一.七haにおいて実施された。名古屋での戦災復興を指導したのは、佐藤名古屋市長の特命を受けた技監(後に名古屋市助役)の田淵寿郎(1890-1974)である。名古屋では、昭和二一年四月に第1回戦災復興予算を市議会で決定した後に、国の審査を受けることで、自前の計画に基づいた強い態度で計画の承認を得ることができた。多少の計画規模の縮小にとどまり、計画決定することができた。
名古屋市の戦災復興において、特徴的なものとして、都心部の東西と南北で十字に交差して引かれた二本の幅員百m道路がある。東西方向は若宮大通り、南北方向は久屋大通りと言う。南北方向の久屋大通りは、堀川でその延長が止まっているが、これは防災の観点から大通りと川を一体的な防災帯として捉え、さらに東西方向の若宮通りと併せて市街地を四分割することで火災などの被害の拡大を防ぐことを目途としている。百m道路だけではなく、堀川の両側にも一五m以上の幅員の道路を設定したこともこのためである。そして、百m道路には中央にグリーンベルトを設け、都市の美観にも生彩を添える遊歩帯をつくり、避難道路としてだけではなく、都市の象徴的中心を造り出したと言える。現在では、若宮大通りには、高架による環状自動車道が整備されているが、これも田淵の言では百m道路とは別の特殊道路として高速度鉄道予定地の上をとっておいたところがあり、これは高架や地下鉄を通しやすくするために考案されていた。ただの道路拡幅だけではないその先まで見据えた道路インフラ整備であった。久屋大通りには、復興のシンボルとして昭和二九年に内藤多仲設計によるテレビ塔が建設され、まで名古屋の都市景観を代表する場となった。このような百m道路は、戦災復興期には名古屋の他に広島で実現する以外には、他都市でも計画があったにも関わらず実現しなかった貴重な事例である。
また、区画整理において常に課題となるものに墓地移転があるが、名古屋の復興土地区画整理では、市街地に立地していた墓地を、名古屋市東部の東山公園に近い九二haを施行区域に編入し、二六haを墓地の換地先として移転させ、残り六六haを道路及び公園として、緑のあふれるレクリエーションの場を兼ねた平和公園に整備した。墓地の集団移転は本来困難を伴うものであるが、名古屋では寺院の各派代表者から成る名古屋市先生復興墓地整理委員会を結成し、各寺院と交渉することなく、委員会との折衝の中で集団移転を進めることができた。これにより名古屋では東部にまとまった緑地をとることができ、これは現在の緑のインフラとして貴重なストックとなっていると言える。このように名古屋では、計画理念を実行していく上で、市民の理解獲得のための方法に長けた計画者たちの実践によってもたらされた都市計画遺産と言えるだろう。

【参考文献】
(1)名古屋市都市局「なごやの躍進 復興土地区画整理事業完成記念」同発行、一九八一
(2)田淵寿郎「或る土木技師の半自叙伝」中部経済連合会、一九六二
(3)米谷栄二「名古屋市戦災復興都市計画事業に関する研究(中間報告書)」一九七〇

 

【図版出典】
図1 名古屋市「戦災復興誌」名古屋市計画局発行、一九八四年
図2 筆者撮影

執筆:中島伸

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