第1回パブリック都市計画史研究会(2019年9月1日)
第三回都市計画史研究者の会(Planning Historians’ Meeting)2016 in 東京大学 開催のお知らせ
【研究発表】「非戦災地方都市の生産都市再建整備事業」
2016年度の都市計画史研究のレビュー
第4回都市計画遺産セミナー カローラ・ハイン(デルフト工科大学)Japanese City Planning in Global Perspective
第4回都市計画遺産セミナーを2016年10月28日(金)19時から開催することになりました。詳しくは週明けに再度ご案内しますが、世界トップクラスの都市計画史研究者であり、日本の都市計画史に関する研究論文も多数執筆されているデルフト工科大学のカローラ・ハイン教授に「Japanese City Planning in Global Perspective」というタイトルでお話を頂きます。
第4回都市計画遺産セミナー(特別レクチャー)
”Japanese City Planning in Global Perspective”…
Prof. Carola Hein(Delft University of Technology)
日時:2016年10月28日(金)19時~20時半
場所:東京大学本郷キャンパス
工学部14号館222(アーバンコモンズ)
参加:申し込み不要、参加無料
主催:都市計画遺産研究会/東京大学都市デザイン研究室
※講演は英語で行われますが、質疑応答では日本語も対応可です。
※カローラ・ハイン先生のプロフィールは下記のとおりです。
Carola Hein is Professor and Head, Chair
History of Architecture and Urban Planning at Delft University of Technology. She trained in Hamburg (Diplom Ingenieurin) and Brussels (Architecte) and earned her doctorate at the Hochschule für bildende Künste Hamburg in 1995. She has published and lectured widely on topics in contemporary and historical architectural and urban planning—notably in Europe and Japan—and has authored several articles and books on capital city issues in Brussels, Strasbourg, Luxembourg, Berlin, and Tokyo. From 1995 to 1999 she was a Visiting Researcher at Tokyo Metropolitan University and Kogakuin University, focusing on the reconstruction of Japanese cities after World War II and the Western influence on Japanese urban planning. Among other major grants, in 2004, she held a grant by the Brussels-Capital Region Government to investigate the urban location and architectural expression of the European capital function. In 2005-06 she has been working with a grant from the Lincoln Institute for Land Policy for research on Regional integration and land policies affecting the future development of Tallinn, Warsaw, and Budapest. In 2007, she received a Guggenheim Fellowship to pursue research on The Global Architecture of Oil.With an Alexander von Humboldt fellowship she investigated large scale urban transformation in Hamburg in international context between 1842 and 2008. Her current interest is the study of international networks and the transmission of architectural and urban ideas along these networks, focusing specifically on port cities and the global architecture of oil.
Carola Hein has authored The Capital of Europe. Architecture and Urban Planning for the European Union (Praeger, 2004), and has edited Port Cities: Dynamic Landscapes and Global Networks London: Rutledge 2011; (with Pierre Laconte (eds,)) Brussels: Perspectives on a European Capital. Brussels: Publication of the Foundation for the Urban Environment, 2007. Bruxelles l’Européene: Capitale de qui? Ville de qui?/ European Brussels. Whose capital? Whose city? Brussels: Cahiers de la Cambre-Architecture n 5, Brussels: La Lettre Volée, 2006; (with Philippe Pelletier (eds.)). Cities, Autonomy and Decentralization in Japan. London: Routledge, 2006/2009: (with Jeffry Diefendorf, and Yorifusa Ishida (eds.)), Rebuilding Urban Japan after 1945. London: Palgrave Macmillan, 2003. She has also published numerous articles in peer-reviewed journals, books, and magazines.
第3回都市計画遺産セミナー「都市計画史は「ニュータウン」に何を見ているのか」開催
テーマ:都市計画史は「ニュータウン」に何を見ているのか -イギリス研究最前線との対話
日時:2015年11月7 日(土)15:30~17:30
会場:フェニックス・シーガイア・リゾート2階オーチャード北
主催:都市計画遺産研究会(日本都市計画学会共同研究組織)
基調講演:マーク・クラプソン(ウェストミンスター大学)
話題提供:中野茂夫(島根大学)、有田智一(筑波大学)、篠沢健太(工学院大学)
司会:中島直人(東京大学)
記録:中島伸(東京大学)
趣旨説明(中島直人)
都市計画遺産研究会では、都市計画遺産セミナーとして、海外から都市計画史研究者を招聘し、海外の都市計画史研究の状況を伺い、日本の都市計画研究の可能性を探ることを目的に開催している。今回は20世紀後半最大の都市計画遺産のひとつである「ニュータウン」を取り上げ、日英を比較しながらこれからの都市計画史研究の展望を議論したい。
基調講演「New Towns in Planning Studies in England」(クラプソン)
イギリスの田園都市運動は、1903年のレッチワース、1920年のウェルウィンによって、新しいコミュニティづくりの先駆けとして始まった。田園都市運動に導かれたNT建設は第二次世界大戦後に結実し、3つのNT法が戦後つくられるが、重要なものは、戦災復興としての重要な側面を持つ1946年法と、最大級のNTであるミルトンキーンズを生んだ1965年法である。今日ではNTに270万人がイギリスでは住んでいる。
戦後イギリスのNTにおいて、近隣住区計画、交通及びコミュニケーション計画、住商分離のゾーニングなどが新しい重要なNT建設の価値として提供された。近隣住区計画については部分的には成功し、ラドバーンシステムによる歩車分離は旧市街の混在型地区に比べて成功したと言える。最大規模のミルトンキーンズでは、自己完結性としては最も成果を挙げたと言える。しかし、現在の絶望的な住宅不足と都市計画協会(TCPA)によるロビイング活動にも関わらず、NTのような大規模なプログラムにわずかな政治的意図しか働いていない。
話題提供1「近隣住区論の導入とニュータウン」(中野)
日本のNT建設は、戦時下の新興工業都市計画からはじまったとされ、内務省の指導要領には近隣住区の考え方が取り入れられていた。それ以前にも内田祥三らが手がけた大同、勝田などの都市計画において近隣住区論の影響が読み取れる。この近隣住区論の受容が日本の導入過程の根幹になったと見てよい。日本にとって、田園都市論が自然豊かな住宅地のイメージとして定着した理論だったのに対して、近隣住区論は都市計画の具体化の理論であり、日本の実情に合わせた段階的展開があった。
話題提供2「 筑波研究学園都市を対象とした「日本における都市計画理論の実践」の検証の意義」(有田)
日本では通常郊外ベッドタウンとしてNTが成立してきた。そこで筑波の自立型都市の構想、実現は重要である。現在筑波が直面している構造転換課題として、①東京の過密抑制という従来の目的の喪失と自立都市圏としての持続可能性、②サイエンスクラスターとしての存在意義の転換期、③均衡のとれた田園都市の実現、④計画、開発における国主体から自治体、市民主体のマネジメントへの移行、⑤これまでの都市計画、設計基準の有効性の検証と時代変化への対応が挙げられる。
話題提供3「地域文脈の視点からの郊外住宅地の再編」(篠沢)
千里NTを事例として、現代の郊外住宅地の再編と再生のための潜在する自然環境構造を解読した。近代的建設により弱められ、失われた空間組織と社会組織のつながり、建設後の人々の住みこなしにより生じた環境の改造や改善の意義を読み取ることが不可欠である。千里NTでは、NT全体で計画単位としての「谷」の継承、住区レベルではため池をベンチマークとする地形の継承、団地レベルでは地形の連続性と変換点の継承が、各スケール、事業段階で行われていた。
コメント(クラプソン)
イギリスでは近隣住区論は1960年代には有効になっていたが日本では必ずしもそうではなかった。地形的な問題が土地利用に大きく影響していた。千里NTでは、地元の農業の影響が気になった。イギリスでは都市開発に大きな反対を受けていた。筑波の自立型都市を目指すことは日本の他の都市においても共通するだろう。筑波の建築水準は高い。日本のNTは密度の問題に他国よりも適切に対処できているのではないか。
コメント(篠沢)
農家がNTに反対する傾向だが、時代が下ると農地利用が減り反対も減る。そして計画の自由度が上がるが、反対譲歩によるため池を残すなど条件がつき、それが魅力的な空間になった。
コメント(有田)
筑波の最初のマスタープランは文脈を無視して理想的に書いたことで、地元農家の大反対があった。当初、インフラ移住者の苦労があり、これらをまとめた記録集もある。近隣センターが重要だった時期もある。NTも時代毎に成長している。
コメント(中野)
日本の高密なNTは設計標準等によってつくられているが、評価は分かれるところ。日本らしさはまだ研究蓄積が浅いが、当時の計画単位を理解することが重要。
コメント(中島直人)
人口、住宅不足の状況が日英では大分異なり、NTの都市計画史研究をする意義も大分異なりそうだ。
コメント(会場から)
日本は既にNTに内在した持続可能性があるのに、継承されずに変更されてしまうことが課題ではないか。
コメント(会場から)
日本の都市計画技術が大きく力をかけたのは、土地取得の点にある。イギリスは比較的簡単だったようだ。今後日本も土地が余り始める。土地取得について比較したい。
文責:中島伸(東京大学)
前現代委員会、報告書完成。
2011-2012年度に活動した日本建築学会前現代都市・建築遺産計画学的検討【若手奨励】特別研究委員会の報告書、ようやく印刷できました。以下、目次を掲載しておきます。
報告書本体は、学会にて閲覧可能です。今後、増刷も検討しています。
・グラビア 前現代期の都市・建築
・目次 ・年表 前現代の都市・建築
・分布図 本報告書の対象
・はじめに
本論
【前現代の建築を見る視点1】
・前現代建築の建築的特徴が生みだす活用価値について 大阪都心部を事例として 高岡伸一(大阪市立大学/高岡伸一建築設計事務所)
・前現代建築の対象領域の拡がりとその価値に関する試論 1950 〜 1970 年代の6 物件を通じて 倉方俊輔(大阪市立大学)
・共同建築から雑居ビルへ ―都市建築としての戦後ビル建築史― 初田香成(東京大学・幹事)
【戦災復興期の基盤整備と都市施設】
・東京都戦災復興区画整理の街区設計に見る区画整理設計技術の特徴 中島伸(練馬まちづくりセンター/東京大学)
・社会広場の建設とその遺産的価値 東京戦災復興区画整理事業で試みられた都市デザイン 西成典久(香川大学)
・鉄道高架下における店舗形成と変容過程 -前現代神戸の盛衰をめぐって 村上しほり(神戸大学)
・国鉄民衆駅の誕生と展開%E
【アトラス05】水島の住区基幹公園群
現在、瀬戸内工業地域の中核として知られる水島(倉敷市)の工業化がはじまったのは、戦時中のことである。昭和17年に三菱重工業株式会社水島航空機製作所が建設されるとともに、厚生地区が造成された。高度経済成長下、水島は新産業都市の指定を受け、重化学工業の促進が図られたが、一方で環境汚染が本格化し、公害対策が課題となった。水島では、緩衝緑地をはじめとする公園・緑地の整備が先進的に進められたが、そのなかでも、ひと際特徴的なのが最初に市街化された水島地区に数十カ所にわたって開設された住区基幹公園である。
水島は、現在倉敷に合併されているが、戦前は連島町に属しており、1940(昭和15)年6月24日に旧都市計画法が適用された。1942年4月9日に、連島の都市計画街路と土地区画整理が計画決定され、翌年に事業決定された。連島の都市計画街路は、幾十にも重なった放射環状の壮大な都市計画であった。その実現にあたって土地区画整理区域も約七〇〇万坪の広域にわたって計画されていた。けれども実際には、その中心部にあたる厚生地区だけが「水島第一土地区画整理事業」として1943-51年にかけて優先的に整備された。
さて、その厚生地区には、工場の従業員向けの社宅や寮が多数設けられ、学校や病院、体育館といった厚生施設が配置されるとともに、生活を支える商店街が形成されていった。その一方で、水島第一土地区画整理事業によって、多数の公園用地が確保されていた。こうした公園が計画された背景には、工場の労働環境の改善にあたって保健・衛生が重視されつつあった当時の時代背景があったと考えられる。この保留地こそ、後に公園用地として使われることになる。
連島が倉敷市へ合併されたのを契機に、都市計画公園の整備が本格的にはじめられた。昭和31年7月10日、高橋勇雄倉敷市長からの申請を受けて、岡山都市計画地方審議会が開催されており、同年9月21日に「倉敷都市計画公園追加並びに連島都市計画公園に対する名称及び番号の変更について」が告示された。そのときに添付された「倉敷都市計画公園配置図(その二)」と「設計予想図」は、公園の配置図と設計図になっており、それが現在の住区基幹公園の原型となったと考えられる。
「倉敷都市計画公園配置図(その二)」には、44公園が記されており、そのうち水島中央公園をのぞく、43公園が小規模な児童公園として計画されていた(旧称「児童公園」は現在の「街区公園」に該当)。水島の住区基幹公園は、戦前の「公園計画標準」にもとづいて用地が確保されていたため、小規模な公園がほとんどであった。このため、公園の整備にあたって複数の公園を合併して一つの公園にするといった計画の見直しが一部でなされたが、それでも一般的な街区公園よりも小規模な多数存在している。現在の計画標準からしてみると狭いものであるかもしれないが、多数の公園が住宅地内にくまなく配置されているという特徴的な公園群なのである。
現存している住区基幹公園は、四方を街路で囲われた公園が大半を占めている。公園内の設備は当初、砂場、便所、飲用水栓、花壇、東屋などが予定されていたが、時代背景とともに変更が加えられており、現在はバラエティに富んでいる。しかしながら、一部にはほとんど使われていない公園も散見されるといった課題が、中心市街地の空洞化とともに顕在化している。(中野)
【参考文献】
(1)国立公文書館所蔵「公文雑纂」(第123巻・都市計画14、昭和17年4月9日)所収「岡山県連島都市計画街路決定」「岡山連島都市計画土地区画整理決定」。
(2)建設省計画局都市計画課編「都市計画及び都市計画事業の決定書類等・岡山県」(国立公文書館所蔵、昭和31年7月19日)。
(3)岡山県『水島のあゆみ』(同発行、1971)。
図版出典
(1)国立公文書館所蔵「公文雑纂」(第123巻・都市計画14、昭和17年4月9日)
(2)建設省計画局都市計画課編「都市計画及び都市計画事業の決定書類等・岡山県」(国立公文書館所蔵、昭和31年7月19日)。
【アトラス04】 一人施行区画整理による良好な郊外住宅地 –常盤台の計画住宅地-
一九二三(大正十二)年の関東大震災後、東京の郊外への都市拡張が本格化する中で、各私鉄の鉄道会社は乗降客数の増加を狙い、沿線の住宅地開発を行っていた。板橋区常盤台は、一九一四
(大正三)年より開業した東武東上線を運営する東武鉄道によって開発された住宅地で、元は貨物の操車場を予定して用地確保していた駅前の土地二七haで計画された。当地では、土地買収からそのまま分譲という形を採らず、都市計画法十二条の規程に基づき区画整理を実施した。当初は、単純なグリッドパタンによる区画整理を実施しようとしていたが、理想的住宅地の建設を掲げる東武鉄道の社長の意向で、内務省、都市計画東京地方委員会の指導により設計を白紙に戻して、街区設計が行われた。
図2 昭和11年 常盤台住宅地案内図(図版出典:参考文献2)
東武鉄道社長の理想的住宅地建設と、内務省のこれまでに蓄積した住宅地開発技術の実践の場として、両者の意向が合致し、この住宅地の基本設計は小宮賢一が手がけた。小宮は当時内務省に入省したての若手技師であり、菱田厚介、北村徳太郎、本多次郎らの上司が設計指導にあたったと言われている。ここで、小宮はそれまで大学で学んできた欧米住宅地の設計手法を活かし、それまでの住宅地開発ではまだ日本では見られなかった手法をふんだんに採り入れた設計を試みた。越沢によると、東京で当時計画されていた五〇〇m間隔で東西南北に計画されていた細道路網計画について、小宮は上司から「この予定線には捉われなくてよい」と指示があったと言う。この指示がどのような根拠で出された、またその後実現に向かったのか詳しいことは分らないが、そうした特殊な状況において、実現した例であることは確かである。
具体的に設計内容を見てみると、まず宅地規模は百坪程度とゆったりとした敷地規模を確保し、後に建築協定の原型となる建築規約を設けることで、良好な住宅地の維持、更新を担保した。街路計画を見ると、住宅地をほぼ一周する環状道路(用地買収できなかった地区があるため完全な一周ではない)によるプロムナードと駅前ロータリーから延びる放射道路の組合せで、地区の街路が大きく形成しており、当初のグリッドパタンによる街区構成とは全く異なる地区設計を行っている。このプロムナードは曲線を大胆に採り入れて中央には植樹帯が設けられ、特徴的な街路景観を生み出している。また、欧米の住宅地設計で開発されたクルドサックによる袋地の設計、ロードベイによる沿道緑地といった手法の導入も行われた。また、クルドサックの袋地には、災害非常用のために路地空間も設計された。このように、様々な空間技法が区画整理内で実施されたことで、常盤台は日本の戦前の住宅地設計において希有な空間形成の実現を可能にした。これは、グリッドパタンを決して良しとしない内務省の街区設計に対する考え方が端的に表れていると言えよう。常盤台は、鉄道会社が土地を買上げ、一人施行による区画整理が実施されたことで、単一土地所有者の強い意向を反映し、他の組合施行では実現できない特徴的な市街地形成を行うことが可能となった。また、可能であったからこそ、常に情報を仕入れ、最新の欧米の技術等も踏まえていた技師たちによるこれまでにはない、空間づくりを都市計画に基づき実践することが出来た貴重な例と言える。
【参考文献】
(1)越沢明「東京都市計画物語」日本経済評論社、一九九一年
(2)板橋区教育委員会生涯学習課文化財係「常盤台住宅物語」文化財シリーズ第八五集、板橋区教育委員会、一九九九年
執筆:中島伸