【アトラス03】お願いだけのまちづくり -岡山中心市街のセットバック空間-
岡山の中心市街地を歩いてみると、セットバックされた歩行者空間がつづいていることに気づかされる。岡山駅前のメインストリートである桃太郎大通りをはじめ、市役所筋、県庁通り、西川緑道公園筋という市街地の主な通りに沿って建物がセットバックされている。
これは、昭和四六年三月に「岡山市の都市美造成のための景観構想計画」に基づくものであるが、このプロジェクト自体、一般にはあまり知られていない。この計画は、「市民が街路を散策し、あるいは建物の窓から街路を眺めたときに、この視角の中で、都市をいかに快適に、又豊かに感じるかのための都市のイメージを作る」ことを目的としていた。その根底には、ヒューマンスケールにあわせた都市を創出しようという意図があったという。発案したのは、岡山市の初代建築指導課長の谷義仁であった。谷を中心とする岡山市の担当職員たちは、①歩行者空間・公共空間を確保するため、前面道路境界からの建築物のセットバック、②セットバックによってうまれた空間の緑化誘導、③建築物に付属する広告物・看板等の色彩・デザインの調整等の三項目について建築主に「お願い」することにした。
ところで、中心市街地でセットバックを行う場合、通常、総合設計制度が用いられる。その場合、セットバックによって良好な歩行者空間を設けた見返りとして、容積の緩和といういわゆる「ボーナス」が与えられることになる。ところが岡山市では、ボーナスの付与もなしに、ただ「お願い」するだけで、セットバック空間の街並みが実現したところに特徴がある。
さて、実際にセットバックを行うにあたって、建築計画があったいくつかの建物に対して依頼したものの、営業面積に直接影響を与えることから交渉は難航した。そこで谷が目をつけたのが、当時、山陽新幹線の開業にあわせて出店を計画していた高島屋であった。高島屋の店舗予定地は、桃太郎大通りと市役所筋が交差する角の一等地であり、岡山市の玄関口といってよい場所であった。セットバックによるまちづくりの一丁目一番地といってよい高島屋に対しては、岡山市長の岡崎平夫もみずからお願いに出向き、理解を求めた。その結果、高島屋はセットバック第一号として昭和四八年五月一九日に開業した。建築家・村野藤吾が設計した岡山高島屋店は、セットバックによる歩行者空間の起点として、現在まで岡山駅前のシンボル的なデパートとなっている。
この谷の目論見は見事にあたり、高島屋につづけとばかり、つぎつぎとセットバックの依頼を受ける建物が増加していった(表1)。セットバックは市役所筋と県庁通りからはじめられ、特に岡山駅から市役所に向かう通り沿いには、良好な歩行者空間が創出された。昭和五一年からは西川緑道公園筋で、昭和六一年からは桃太郎大通りでそれぞれセットバックが開始された。一方で、総合設計制度によるセットバックも行われるようになり、現在のところ市役所筋の五棟、県庁通りの一棟、桃太郎大通りの一棟が該当している。
実際に、これだけ多くのセットバックを「お願い」するにあたって、岡山市では各通りの幅員や特性にあわせたセットバック距離の基準が設定されている(表2)。なかでももっとも高い基準となっているのが市役所筋であり、一階では五メートルものセットバックが求められている。また、西川緑道公園で建物の高さにあわせてセットバック距離を変えるといった配慮を行っているほか、桃太郎大通りでは、おいでんせえ広場のまわりで間口にあわせてセットバックの距離を定めている。このように各通りの特性にあわせて基準が設定したことで、セットバックを容易にし、多くの建物で実現したのである。
ところで岡山のセットバックの形状についてみてみると、三つのタイプがあることがわかる。①建物全体をセットバック、②一階部分のみをセットバック、③ピロティに大別することができる。けれども、そのなかには複合的なタイプも存在しており、例えば、建物全体をセットバックしながらピロティを設けるなど、多種多様な空間となっている。また一方で植栽の配置といった使い方は所有者に委ねられており、一貫性のない印象を受ける。このように連続性のない雑多な建物群が積み重ねられてできたセットバックの空間は、歩行者空間としての魅力を見えにくくしているともいえる。けれども岡山の中心市街地には、「お願い」という建築主の自主性に委ねた、ほとんど例をみない都市計画手法によって、たしかに良好な歩行者空間がひろがっているのである。
【参考文献】
(1)井上亮・中野茂夫「おねがいだけの街づくり〜戦後岡山市街地における都市計画の独自性に関する史的研究その1〜」(日本建築学会中国支部、二〇一三年三月)
(2)井上亮・中野茂夫「戦後岡山市街地のセットバック形状に関する研究〜戦後岡山市街地における都市計画の独自性に関する史的研究その1〜」(日本建築学会中国支部、二〇一三年三月)
執筆:中野茂夫
【アトラス02】名古屋の百m道路 戦災復興による広幅員街路
第二次世界大戦で、名古屋市はその市域の四分の一を焼失するという甚大な被害に見舞われたが、敗戦後これを契機とした理想的な都市建設を目標に、復興計画を立案した。復興事業では、旧市街地を中心として、当初四四〇六.六haという当時の市域の約二七%に相当する範囲で計画され、①中心市街地を根本的に改造すること、②罹災地区の復興だけでなく、関連地区を含めて総合的に計画すること、③副都心の設定を計画すること、④特に保健、防火、防災に留意すること等が、基本方針として掲げられた。復興事業は、昭和二一年から昭和六一年にかけて行われ、昭和二四年に財政面から事業区域の変更が行われ、焼け残り家屋の集まる地区が除外された。最終的に名古屋都市計画事業復興土地区画整理事業は、名古屋市長を施行者として、四八の工区からなる施行面積三四五一.七haにおいて実施された。名古屋での戦災復興を指導したのは、佐藤名古屋市長の特命を受けた技監(後に名古屋市助役)の田淵寿郎(1890-1974)である。名古屋では、昭和二一年四月に第1回戦災復興予算を市議会で決定した後に、国の審査を受けることで、自前の計画に基づいた強い態度で計画の承認を得ることができた。多少の計画規模の縮小にとどまり、計画決定することができた。
名古屋市の戦災復興において、特徴的なものとして、都心部の東西と南北で十字に交差して引かれた二本の幅員百m道路がある。東西方向は若宮大通り、南北方向は久屋大通りと言う。南北方向の久屋大通りは、堀川でその延長が止まっているが、これは防災の観点から大通りと川を一体的な防災帯として捉え、さらに東西方向の若宮通りと併せて市街地を四分割することで火災などの被害の拡大を防ぐことを目途としている。百m道路だけではなく、堀川の両側にも一五m以上の幅員の道路を設定したこともこのためである。そして、百m道路には中央にグリーンベルトを設け、都市の美観にも生彩を添える遊歩帯をつくり、避難道路としてだけではなく、都市の象徴的中心を造り出したと言える。現在では、若宮大通りには、高架による環状自動車道が整備されているが、これも田淵の言では百m道路とは別の特殊道路として高速度鉄道予定地の上をとっておいたところがあり、これは高架や地下鉄を通しやすくするために考案されていた。ただの道路拡幅だけではないその先まで見据えた道路インフラ整備であった。久屋大通りには、復興のシンボルとして昭和二九年に内藤多仲設計によるテレビ塔が建設され、まで名古屋の都市景観を代表する場となった。このような百m道路は、戦災復興期には名古屋の他に広島で実現する以外には、他都市でも計画があったにも関わらず実現しなかった貴重な事例である。
また、区画整理において常に課題となるものに墓地移転があるが、名古屋の復興土地区画整理では、市街地に立地していた墓地を、名古屋市東部の東山公園に近い九二haを施行区域に編入し、二六haを墓地の換地先として移転させ、残り六六haを道路及び公園として、緑のあふれるレクリエーションの場を兼ねた平和公園に整備した。墓地の集団移転は本来困難を伴うものであるが、名古屋では寺院の各派代表者から成る名古屋市先生復興墓地整理委員会を結成し、各寺院と交渉することなく、委員会との折衝の中で集団移転を進めることができた。これにより名古屋では東部にまとまった緑地をとることができ、これは現在の緑のインフラとして貴重なストックとなっていると言える。このように名古屋では、計画理念を実行していく上で、市民の理解獲得のための方法に長けた計画者たちの実践によってもたらされた都市計画遺産と言えるだろう。
【参考文献】
(1)名古屋市都市局「なごやの躍進 復興土地区画整理事業完成記念」同発行、一九八一
(2)田淵寿郎「或る土木技師の半自叙伝」中部経済連合会、一九六二
(3)米谷栄二「名古屋市戦災復興都市計画事業に関する研究(中間報告書)」一九七〇
【図版出典】
図1 名古屋市「戦災復興誌」名古屋市計画局発行、一九八四年
図2 筆者撮影
執筆:中島伸
【アトラス01】 松江の官庁街 -島根県庁周辺整備計画の遺産
松江の官庁街の中心に建つ現在の島根県庁舎は五代目を数える。四代目県庁舎の焼失後、復興対策特別委員会が設置され、行政機能の多様化によって分散していた施設を集中させるという基本方針が立てられた。設計者として白羽の矢が立ったのが、当時、建設省営繕局に勤務していた安田臣(かたし)である。安田は旧三之丸の敷地のできるだけ北側に本庁舎を配置し、周辺から松江城(国指定重要文化財)に向けた眺望に配慮した。このため、高さを地上六階に抑えるとともに地下を設けている。一方で、松江城を含む城山公園と一体化させるために、県庁舎の前に庭園が設けられた。庭園の設計を担当したのは、重森三玲の息子の重森完途である。一方で、庭園の南側に隣接して博物館が設置された。博物館の設計を担当したのは、新進気鋭の若き建築家・菊竹清訓であった。こうして県庁周辺の基本構成ができあがった。
このころ官庁の一団地建設が昭和三一年に改正された「官公庁施設の建設等に関する法律」のもとで、各地で計画されようとしていた(霞ヶ関、盛岡、秋田、名古屋、静岡等)。島根県では最終的に同法は適用されなかったが、県政に強いリーダーシップを発揮した田部長右衛門知事のもとで県庁周辺整備計画が開始された。
昭和三六年二月二〇日に開催された県議会で県庁のすぐ裏にあった刑務所の移転が決定され、この跡地利用が官庁街再編の発端となった。昭和三九年九月二一日に開催された県議会で田部は文化会館と図書館の建設について言及しており、その調査に向けた予算措置を行っている。そして昭和四〇年四月に当時、中国地方建設局長だった大塚全一と独立して事務所を構えていた安田臣と県当局とで協議が行われ、県庁周辺整備委員会が発足した。同年八月一九日に第一回県庁周辺整備委員会が開催されており、委員には大塚と安田に加え、専門家として武基雄、松井達夫という早稲田大学教授が名を連ねた。第一回の委員会では、県民会館の位置が決定され、県庁舎との関係から、安田が設計を担当することになった。安田は県民会館の西側のファサードを県庁舎と一体的なデザインにすることで、景観の統一を図った。県民会館は昭和四三年九月二五日に竣工した。第二回委員会は昭和四一年一月一九日に開催された。旧刑務所跡地の利用について審議され、図書館の建設が決定された。同年七月二八日に開催された第三回委員会でも引きつづき跡地利用について審議が行われ、武道館の位置が決定された。図書館と武道館の設計を任されたのは、さきに博物館の設計を担当した菊竹であった。図書館はL型を原則とする平面構成となっており、城山公園の散歩道からその特徴的な姿を見ることができる。島根県立図書館は昭和四三年一〇月一五日に、武道館は昭和四五年七月一五日に竣工した。昭和四四年一月二九日には、県庁周辺整備元委員懇談会が開催され、旧委員に菊竹を加えて武道館、議事堂別館、松江合同庁舎の建設に関して意見交換が行われた。この懇談会の議を経てそれぞれ着工し、いずれも昭和四五年に竣工した。
一方、県庁舎の前には、市所有の土地が残されており、消防署等の建物が建っていた。当時、多くの批判があったというが、田部知事の英断で県庁舎前の土地すべてを買収し、庭園の第二期工事に着手した。造園も引き続き重森によって行われた。重森は、島根県の海と雲と山と平野をテーマに設計しており、松をモチーフとしながらも日本庭園から脱却したデザインを施した。この庭園が存在していることにより、松江城と、県庁舎・県民会館、博物館(現島根県公文書センター)等の県庁周辺整備計画の遺産とが一体化する空間が創出された。伝統的なイメージの強い松江ではあるが、戦後モダニズムの建物群が集積する官庁街も都市を代表する景観をつくっており、島根県では現在、県庁舎の耐震改修工事を行うとともに、その継承が模索されている。
【参考文献】
(1)島根県『島根県庁周辺整備誌』(同発行、一九七一)
(2)中野茂夫「近現代松江の官庁街形成史〜官公署・文教施設の配置と県庁周辺整備計画に注目して〜」(日本都市計画学会『都市計画論文集』四七−三、二〇一二)
執筆:中野茂夫