【アトラス01】 松江の官庁街 -島根県庁周辺整備計画の遺産

松江の官庁街の中心に建つ現在の島根県庁舎は五代目を数える。四代目県庁舎の焼失後、復興対策特別委員会が設置され、行政機能の多様化によって分散していた施設を集中させるという基本方針が立てられた。設計者として白羽の矢が立ったのが、当時、建設省営繕局に勤務していた安田臣(かたし)である。安田は旧三之丸の敷地のできるだけ北側に本庁舎を配置し、周辺から松江城(国指定重要文化財)に向けた眺望に配慮した。このため、高さを地上六階に抑えるとともに地下を設けている。一方で、松江城を含む城山公園と一体化させるために、県庁舎の前に庭園が設けられた。庭園の設計を担当したのは、重森三玲の息子の重森完途である。一方で、庭園の南側に隣接して博物館が設置された。博物館の設計を担当したのは、新進気鋭の若き建築家・菊竹清訓であった。こうして県庁周辺の基本構成ができあがった。

このころ官庁の一団地建設が昭和三一年に改正された「官公庁施設の建設等に関する法律」のもとで、各地で計画されようとしていた(霞ヶ関、盛岡、秋田、名古屋、静岡等)。島根県では最終的に同法は適用されなかったが、県政に強いリーダーシップを発揮した田部長右衛門知事のもとで県庁周辺整備計画が開始された。

昭和三六年二月二〇日に開催された県議会で県庁のすぐ裏にあった刑務所の移転が決定され、この跡地利用が官庁街再編の発端となった。昭和三九年九月二一日に開催された県議会で田部は文化会館と図書館の建設について言及しており、その調査に向けた予算措置を行っている。そして昭和四〇年四月に当時、中国地方建設局長だった大塚全一と独立して事務所を構えていた安田臣と県当局とで協議が行われ、県庁周辺整備委員会が発足した。同年八月一九日に第一回県庁周辺整備委員会が開催されており、委員には大塚と安田に加え、専門家として武基雄、松井達夫という早稲田大学教授が名を連ねた。第一回の委員会では、県民会館の位置が決定され、県庁舎との関係から、安田が設計を担当することになった。安田は県民会館の西側のファサードを県庁舎と一体的なデザインにすることで、景観の統一を図った。県民会館は昭和四三年九月二五日に竣工した。第二回委員会は昭和四一年一月一九日に開催された。旧刑務所跡地の利用について審議され、図書館の建設が決定された。同年七月二八日に開催された第三回委員会でも引きつづき跡地利用について審議が行われ、武道館の位置が決定された。図書館と武道館の設計を任されたのは、さきに博物館の設計を担当した菊竹であった。図書館はL型を原則とする平面構成となっており、城山公園の散歩道からその特徴的な姿を見ることができる。島根県立図書館は昭和四三年一〇月一五日に、武道館は昭和四五年七月一五日に竣工した。昭和四四年一月二九日には、県庁周辺整備元委員懇談会が開催され、旧委員に菊竹を加えて武道館、議事堂別館、松江合同庁舎の建設に関して意見交換が行われた。この懇談会の議を経てそれぞれ着工し、いずれも昭和四五年に竣工した。

一方、県庁舎の前には、市所有の土地が残されており、消防署等の建物が建っていた。当時、多くの批判があったというが、田部知事の英断で県庁舎前の土地すべてを買収し、庭園の第二期工事に着手した。造園も引き続き重森によって行われた。重森は、島根県の海と雲と山と平野をテーマに設計しており、松をモチーフとしながらも日本庭園から脱却したデザインを施した。この庭園が存在していることにより、松江城と、県庁舎・県民会館、博物館(現島根県公文書センター)等の県庁周辺整備計画の遺産とが一体化する空間が創出された。伝統的なイメージの強い松江ではあるが、戦後モダニズムの建物群が集積する官庁街も都市を代表する景観をつくっており、島根県では現在、県庁舎の耐震改修工事を行うとともに、その継承が模索されている。

 

【参考文献】
(1)島根県『島根県庁周辺整備誌』(同発行、一九七一)
(2)中野茂夫「近現代松江の官庁街形成史〜官公署・文教施設の配置と県庁周辺整備計画に注目して〜」(日本都市計画学会『都市計画論文集』四七−三、二〇一二)

執筆:中野茂夫

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