浅草大火跡区画整理と忘年会

12月 24, 2011 by · Leave a Comment
Filed under: 都市計画遺産研究会 

2011年12月23日、第8回都市計画遺産研究会は、季節柄、忘年会を兼ねたまちあるきということになりました。まちあるきのテーマは、我が国の「都市計画事業第一号」の探求。あまり知られていないのですが、1919年に都市計画法が制定され、1923年に関東大震災が起き、帝都復興事業が開始されるまでの間の4年の間にも、各都市で何度か大きな大火があり、その大火の跡の復興にあたって、当時の都市計画法第13条に規定された区画整理事業が適用されたのです。東京では、以下の二つの大火後、初めての都市計画事業として、区画整理が行われました。
・東京市四谷区新宿の大火(1921年3 月、焼失面積約2 万坪、焼失戸数604 戸)
・浅草田町の大火(1921年4月、焼失面積25000坪、焼失戸数1241戸)
しかし、この両地区、大火後の区画整理のさらに後、前者は戦災復興区画整理、後者は帝都復興区画整理が周囲も含めて重ねて実施されたため、現在では周囲に埋没してしまい、そのエリアは一見すると分かりにくくなっています。  

さて、今回は、まずは浅草神谷バー前に集合し(総勢10名)、浅草寺の裏手にひろがる浅草田町を目指しました。浅草田町大火、そして関東大震災後にもともと田町にもあった浅草寺の子院が集団移転した有名なお寺の団地をとおりぬけて、富士通りから浅間神社を経由して山谷掘まで地区を縦断し、その後、引き返すかたちで地区内を踏査しました。区画整理前、区画整理後とを比べると分かるように、この復興区画整理の設計上のポイントは浅間神社の扱いだったようで、もともと浅間神社前でL字に折れていた富士通りは、区画整理により山谷方面にまで延伸されるのですが、浅間神社前で微妙に角度を振り、ずらすことで、神社の正面性を残したまま、うまくその裏手方向に伸びていく、かつ神社前にちょっと不思議な広場的空間を生み出した、というところが、都市計画遺産的には興味深いところでした。周囲の帝都復興区画整理事業地区との違いは、街区の規模等で何となく認知できるかな、といったところで、まぁ、はっきりとこれっといった(「ブラタモリ」で取り上げたくなるような)特徴はつかめなかったかも知れません。力不足でした。  

ということで、浅草の調査を終えて、続いて新宿へ、という予定だったのですが、ここで「外は寒いし、まちあるきはほどほどにして、早く忘年会を」という無言の合意形成がなされ、思わず18時前にもかかわらず、浅草ひさご通りの創業130年の老舗、米久本店に直行、新宿についての資料解読(何といっても研究会ですから)をさささっとすませた後、乾杯。皆でおいしく牛鍋をつつきました。それぞれ一皿分を食して、米久さんを出た後は、浅草で飲むといえばここしかないという浅草公園本通り(通称ホッピー通りとか、煮込み横丁だとか)に移動し、二次会。おそらく、ここでは熱く都市計画(とそのひろがる関連領域)についての議論が交わされたはず・・・。ということで、都市計画遺産研究会の2011年は、浅草の片隅で大変おごそかに暮れていったのでした。  

浅草田町大火後の復興区画整理

浅草浅間神社前(日が暮れかかっています)

牛鍋よ 食べる前から 舌鼓

参加者(前:津々見・田中暁・岡村・初田 後:松原・大沢・中島直・中島伸・田中傑・佐野)

前現代委員会の進捗

12月 8, 2011 by · Leave a Comment
Filed under: 前現代遺産研究委員会 

今年度から始まった日本建築学会の若手奨励特別研究委員会ですが、現在、委員が順次、発表を行うかたちで進めています。10月28日は、田中傑さん(芝浦工大)と初田香成さん(東大)に防火建築帯を中心とした商店街の建築の話、12月2日には、西成典久さん(香川大)と中島伸さん(練馬まちづくりセンター)に東京の戦災復興区画整理について、充実した発表を行って頂き、参加者で全員で前現代遺産の特質について議論しました。二回の発表に共通して、「基準化」というのがひとつのキーワードのようです。今後もこうしたかたちで研究会を続けていきますが、来年の建築学会大会では、ここでの成果をもとに、パネルディスカッションを予定しています。眼前の空間に蓄積された何気ない時間の塊を、現在、そして将来の都市生活の幸福に結びてけていく回路を探求していきます。

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