【アトラス02】名古屋の百m道路 戦災復興による広幅員街路
第二次世界大戦で、名古屋市はその市域の四分の一を焼失するという甚大な被害に見舞われたが、敗戦後これを契機とした理想的な都市建設を目標に、復興計画を立案した。復興事業では、旧市街地を中心として、当初四四〇六.六haという当時の市域の約二七%に相当する範囲で計画され、①中心市街地を根本的に改造すること、②罹災地区の復興だけでなく、関連地区を含めて総合的に計画すること、③副都心の設定を計画すること、④特に保健、防火、防災に留意すること等が、基本方針として掲げられた。復興事業は、昭和二一年から昭和六一年にかけて行われ、昭和二四年に財政面から事業区域の変更が行われ、焼け残り家屋の集まる地区が除外された。最終的に名古屋都市計画事業復興土地区画整理事業は、名古屋市長を施行者として、四八の工区からなる施行面積三四五一.七haにおいて実施された。名古屋での戦災復興を指導したのは、佐藤名古屋市長の特命を受けた技監(後に名古屋市助役)の田淵寿郎(1890-1974)である。名古屋では、昭和二一年四月に第1回戦災復興予算を市議会で決定した後に、国の審査を受けることで、自前の計画に基づいた強い態度で計画の承認を得ることができた。多少の計画規模の縮小にとどまり、計画決定することができた。
名古屋市の戦災復興において、特徴的なものとして、都心部の東西と南北で十字に交差して引かれた二本の幅員百m道路がある。東西方向は若宮大通り、南北方向は久屋大通りと言う。南北方向の久屋大通りは、堀川でその延長が止まっているが、これは防災の観点から大通りと川を一体的な防災帯として捉え、さらに東西方向の若宮通りと併せて市街地を四分割することで火災などの被害の拡大を防ぐことを目途としている。百m道路だけではなく、堀川の両側にも一五m以上の幅員の道路を設定したこともこのためである。そして、百m道路には中央にグリーンベルトを設け、都市の美観にも生彩を添える遊歩帯をつくり、避難道路としてだけではなく、都市の象徴的中心を造り出したと言える。現在では、若宮大通りには、高架による環状自動車道が整備されているが、これも田淵の言では百m道路とは別の特殊道路として高速度鉄道予定地の上をとっておいたところがあり、これは高架や地下鉄を通しやすくするために考案されていた。ただの道路拡幅だけではないその先まで見据えた道路インフラ整備であった。久屋大通りには、復興のシンボルとして昭和二九年に内藤多仲設計によるテレビ塔が建設され、まで名古屋の都市景観を代表する場となった。このような百m道路は、戦災復興期には名古屋の他に広島で実現する以外には、他都市でも計画があったにも関わらず実現しなかった貴重な事例である。
また、区画整理において常に課題となるものに墓地移転があるが、名古屋の復興土地区画整理では、市街地に立地していた墓地を、名古屋市東部の東山公園に近い九二haを施行区域に編入し、二六haを墓地の換地先として移転させ、残り六六haを道路及び公園として、緑のあふれるレクリエーションの場を兼ねた平和公園に整備した。墓地の集団移転は本来困難を伴うものであるが、名古屋では寺院の各派代表者から成る名古屋市先生復興墓地整理委員会を結成し、各寺院と交渉することなく、委員会との折衝の中で集団移転を進めることができた。これにより名古屋では東部にまとまった緑地をとることができ、これは現在の緑のインフラとして貴重なストックとなっていると言える。このように名古屋では、計画理念を実行していく上で、市民の理解獲得のための方法に長けた計画者たちの実践によってもたらされた都市計画遺産と言えるだろう。
【参考文献】
(1)名古屋市都市局「なごやの躍進 復興土地区画整理事業完成記念」同発行、一九八一
(2)田淵寿郎「或る土木技師の半自叙伝」中部経済連合会、一九六二
(3)米谷栄二「名古屋市戦災復興都市計画事業に関する研究(中間報告書)」一九七〇
【図版出典】
図1 名古屋市「戦災復興誌」名古屋市計画局発行、一九八四年
図2 筆者撮影
執筆:中島伸
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