【アトラス05】水島の住区基幹公園群
現在、瀬戸内工業地域の中核として知られる水島(倉敷市)の工業化がはじまったのは、戦時中のことである。昭和17年に三菱重工業株式会社水島航空機製作所が建設されるとともに、厚生地区が造成された。高度経済成長下、水島は新産業都市の指定を受け、重化学工業の促進が図られたが、一方で環境汚染が本格化し、公害対策が課題となった。水島では、緩衝緑地をはじめとする公園・緑地の整備が先進的に進められたが、そのなかでも、ひと際特徴的なのが最初に市街化された水島地区に数十カ所にわたって開設された住区基幹公園である。
水島は、現在倉敷に合併されているが、戦前は連島町に属しており、1940(昭和15)年6月24日に旧都市計画法が適用された。1942年4月9日に、連島の都市計画街路と土地区画整理が計画決定され、翌年に事業決定された。連島の都市計画街路は、幾十にも重なった放射環状の壮大な都市計画であった。その実現にあたって土地区画整理区域も約七〇〇万坪の広域にわたって計画されていた。けれども実際には、その中心部にあたる厚生地区だけが「水島第一土地区画整理事業」として1943-51年にかけて優先的に整備された。
さて、その厚生地区には、工場の従業員向けの社宅や寮が多数設けられ、学校や病院、体育館といった厚生施設が配置されるとともに、生活を支える商店街が形成されていった。その一方で、水島第一土地区画整理事業によって、多数の公園用地が確保されていた。こうした公園が計画された背景には、工場の労働環境の改善にあたって保健・衛生が重視されつつあった当時の時代背景があったと考えられる。この保留地こそ、後に公園用地として使われることになる。
連島が倉敷市へ合併されたのを契機に、都市計画公園の整備が本格的にはじめられた。昭和31年7月10日、高橋勇雄倉敷市長からの申請を受けて、岡山都市計画地方審議会が開催されており、同年9月21日に「倉敷都市計画公園追加並びに連島都市計画公園に対する名称及び番号の変更について」が告示された。そのときに添付された「倉敷都市計画公園配置図(その二)」と「設計予想図」は、公園の配置図と設計図になっており、それが現在の住区基幹公園の原型となったと考えられる。
「倉敷都市計画公園配置図(その二)」には、44公園が記されており、そのうち水島中央公園をのぞく、43公園が小規模な児童公園として計画されていた(旧称「児童公園」は現在の「街区公園」に該当)。水島の住区基幹公園は、戦前の「公園計画標準」にもとづいて用地が確保されていたため、小規模な公園がほとんどであった。このため、公園の整備にあたって複数の公園を合併して一つの公園にするといった計画の見直しが一部でなされたが、それでも一般的な街区公園よりも小規模な多数存在している。現在の計画標準からしてみると狭いものであるかもしれないが、多数の公園が住宅地内にくまなく配置されているという特徴的な公園群なのである。
現存している住区基幹公園は、四方を街路で囲われた公園が大半を占めている。公園内の設備は当初、砂場、便所、飲用水栓、花壇、東屋などが予定されていたが、時代背景とともに変更が加えられており、現在はバラエティに富んでいる。しかしながら、一部にはほとんど使われていない公園も散見されるといった課題が、中心市街地の空洞化とともに顕在化している。(中野)
【参考文献】
(1)国立公文書館所蔵「公文雑纂」(第123巻・都市計画14、昭和17年4月9日)所収「岡山県連島都市計画街路決定」「岡山連島都市計画土地区画整理決定」。
(2)建設省計画局都市計画課編「都市計画及び都市計画事業の決定書類等・岡山県」(国立公文書館所蔵、昭和31年7月19日)。
(3)岡山県『水島のあゆみ』(同発行、1971)。
図版出典
(1)国立公文書館所蔵「公文雑纂」(第123巻・都市計画14、昭和17年4月9日)
(2)建設省計画局都市計画課編「都市計画及び都市計画事業の決定書類等・岡山県」(国立公文書館所蔵、昭和31年7月19日)。
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