第2回都市計画遺産セミナー報告 中国の都市計画史と日本の都市計画史 -学術コラボレーションの可能性を求めて
中国の都市計画史と日本の都市計画史-学術コラボレーションの可能性を求めて
日時:2013年11月9日(土)13時~15時
会場:法政大学田町校舎T413教室
主催:都市計画遺産研究会(日本都市計画学会共同研究組織)
発表者:李百浩(東南大学)、侯丽(同済大学)、傅舒蘭(浙江大学)
コメンテーター:渡辺俊一(東京理科大学)、中野茂夫(島根大学)、中島直人(慶應義塾大学)、中島伸(東京大学)
司会:初田香成(東京大学)
記録:田中暁子(後藤・安田記念東京都市研究所)
●趣旨説明(中島直)
都市計画遺産研究会は都市計画史研究の活性化を目的とした若手の集まりである。昨年、中国の都市計画学会の中にも都市計画史の委員会が設立された。都市計画史研究分野において中国と日本で一緒に何が出来るか。今までは欧米と日本との比較が多かったが、中国を含む三点間で比較することで立体的にみることが出来ると思う。
●発表1「中国の都市計画研究・教育の現状と都市計画史」(傅)
中国では、2011年以前は城市規劃(都市計画)学科は設置されておらず、建築学科の下の二級学科(コース)扱いだった。2011年以降「城市規劃」が一級学科になった。現在、175の大学に都市計画のコースが置かれている。国が指定している10の主要授業科目の中に「都市発展・計画史」がある。中国城市規劃学会は1987年に建築学会から独立した。11の小委員会(学術委員会)があり、昨年、都市計画史の委員会が設立された。中国の歴史研究では、古代・近代・現代の明確な区分が共有されている。古代と近代の区分は1840年のアヘン戦争、近代と現代の区分は1949年の中華人民共和国の成立であり、都市計画史もそれに従っている。中国では、都市史・都市計画史・都市保全・建築史研究が混在していてピュアな都市計画史研究者は少ない。科研費がとりにくいことや、地図が国家秘密となっていて入手しづらいことがネックとなっている。
●発表2「近代以降中国における「城市規劃」用語の変遷」(李)
都市計画の歴史資料(学術著作、翻訳書、政府広報、計画書類)から”city planning”に対応する言葉を抽出した。城市規画、都市改良、都市設計、都市計画、都市規画、市政計画、城市設計、城市計画、都市規劃、市区規劃、都市営建、都市計劃、城市計劃など、全46語があった。cityに対応するのは主に城市と都市の2つ、planningに対応するのは主に規画、設計、計画、計劃、規劃の5つである。主要な用語で時代を区分すると、「城市規画」(1913)、「都市計画」(1918-1928)、「城市設計」(1928-1934)、「都市計劃」(1934-1956)、「城市規劃」(1956-)となる。中国では、欧米の科学技術を導入する際、中国の伝統文化に基づく学習・再構成のプロセスを経る。”City planning”についても、既存の漢字に新しい意味を与えて新しい概念を表現した。「規劃」は近代以前の中国において最も多く使用されてきた用語である。一方で、「計画」は日本からの逆輸入であった。
●発表3「The Unplanned Path of Chinese Planning Schools」(侯)
中国では、都市計画を学ぶ学部生が3万人、修士課程が3660人、博士課程が436人いる。この10年で急激に増えた。中国の都市計画教育史は、1952年以前:萌芽期、1952年から1960年:第一次ブーム、1960年代から70年代中ごろ:低迷期、1970年代から80年代:回復期、1990年代:改革期、2000年代:繁栄期と画期できる。最初の独立した都市計画プログラムは1952年に同済大学に設立された。1960年代は文化大革命で失われた時代である。1970年代は都市計画が職能として復活し、南京大学、北京大学、中山大学、杭州大学(後に浙江大学に吸収)で地理学を中心とした都市計画コースが創設された。1990年代は改革の時期で、デザインスタジオが重視されるようになった。現在、中国では都市計画関係のプログラムが300以上あるが、教育資源の問題で、トップとボトムの差が大きくなっている。
●コメント(中野)
かつて中国と日本の都市計画史が交わった点は近代以降2つあるのではないか。一つは日本の中国侵略期に中国の都市計画をかなりやっていた時代。もう一つは直接的な関係ではないが、戦災復興の際、日本の戦時中の都市計画の影響がかなりあったのではないか。その後、中国では特に土地所有の違いから、日本とかなり異なる都市計画体系が進んでいったが、北京オリンピック以降、保全・保存が俎上に上がるようになった。そこに研究の接点があるのではないか。
●コメント(中島直)
中国の都市計画史を通して日本の都市計画の特徴に気付かされるということも大事である。例えば、日本では1960年代に都市計画の専門学科が出来たが、その後は、中国と違い、都市計画の専門コースが数多く設立されるということはなかった。専門家を養成できなかったわけだが、1960年代、70年代の都市開発の時代をのりきった。専門家がいなくても、都市をつくれたのはなぜだろうか。
●コメント(渡辺)
都市計画研究をなぜやるか。自分のやってきたことは、国際的に比較したり歴史的に眺めてみたりすることで、都市計画が何なのかを理解することであった。国際比較も歴史研究も同じ関心に基づいている。日中比較で興味深いのは、中国は官僚主義だがプロフェッショナリズムが成立している点。100年前は汚かったけれども、今はきれいになりつつある東アジアの都市計画は、世界スケールで見てもとてもユニークである。都市計画のストーリーを検証してみたい。
●コメント(李)
中国の都市計画史研究はスタートが遅く、まだ若い研究分野である。1949年から1980年までは、近代(中華民国)の研究はあまりできなかった。今後、文化の多様性・歴史を大事にした都市をつくるという世界的潮流の中で、都市計画史研究は大事である。研究の方法、資料収集、厳密な分析という点でも情報を交換していきたい。
●コメント(侯)
中央官僚が引っ張っていたと言う点は似ている。というのも、中国は1949年以降ずっと計画経済のソ連を勉強していたからだ。今、中国の手本の一つは東京。中国もそろそろ都市化が終焉を迎えている。上海市の再開発の際に参考にしている。お互いの国の歴史・経験、エピソードの共有が大事である。
●コメント(会場から、渡部與四郎元都市計画学会会長)
1989年に日中交流の協定を結んだ。現在、日本・中国の関係を修復したいと思っている。例えば地球環境問題への対応を含めて都市計画をどうするか。そういう具体的な話をしたらいいと思っている。
●まとめ(中島伸)
今回が日中交流の端緒であり、互いにバックグラウンドを共有できたと思う。昨日のプレワークショップでも感じたが、都市計画史研究者として史料に向かう眼差しは、国が違っても同じである。
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