Young Scholars Seminar of Planning History Study in China and Japan
2015年3月21日、中国・杭州にて、浙江大学が主催し、都市計画遺産研究会も協力するかたちで、「日中都市計画史若手研究者交流研究会」(Young Scholars Seminar of Planning History Study in China and Japan)が開かれました。中国からは5つの研究発表がありました。日本側は中島直人(慶應義塾大学)、初田香成(東京大学)、中島伸(東京大学)が発表し、その後、研究のテーマ、枠組み、方法についてのディスカッションを行いました。 Whats my ip
第一回都市計画史研究者の会(Planning Historians’ Meeting)開催のお知らせ
第一回
都市計画史研究者の会(Planning Historians’ Meeting)開催のお知らせ
2014年11月14日(金)15時~18時半
※なお、会合後、
こちらも(あるいは日中の都合がつかない方はこちらだけでも)、
安芸リーガルビル会議室
広島市中区上八丁堀8-14 安芸リーガルビル2階
最寄駅:広島電鉄9系統「女学院前」駅 徒歩1分
電話番号:082−502−0428
都市計画遺産研究会(日本都市計画学会共同研究組織)
・特別レクチャー 「広島県・市による平和構築・人材育成事業は有効か/
・2019年に向けた都市計画史研究の展望(
※参加者はA4・1枚程度の簡単なメモをご用意ください。
※必要部数(参加人数)については確定次第、
都市計画史の研究者および研究者候補の学生
・秋本福雄
・石丸紀興
・加嶋章博
・小林敬一
・佐野浩祥
・津々見崇
・中島 伸
・中島直人
・中野茂夫
・西成典久
・初田香成
・松原康介
・山口敬太
・渡辺俊一
他
メールにて、幹事まで。
幹事:中島直人(慶應義塾大学、都市計画遺産研究会)
naoto@sfc.keio.ac.jp
※懇親会への参加の有無についても、合わせてお知らせください。
第2回都市計画遺産セミナー報告 中国の都市計画史と日本の都市計画史 -学術コラボレーションの可能性を求めて
中国の都市計画史と日本の都市計画史-学術コラボレーションの可能性を求めて
日時:2013年11月9日(土)13時~15時
会場:法政大学田町校舎T413教室
主催:都市計画遺産研究会(日本都市計画学会共同研究組織)
発表者:李百浩(東南大学)、侯丽(同済大学)、傅舒蘭(浙江大学)
コメンテーター:渡辺俊一(東京理科大学)、中野茂夫(島根大学)、中島直人(慶應義塾大学)、中島伸(東京大学)
司会:初田香成(東京大学)
記録:田中暁子(後藤・安田記念東京都市研究所)
●趣旨説明(中島直)
都市計画遺産研究会は都市計画史研究の活性化を目的とした若手の集まりである。昨年、中国の都市計画学会の中にも都市計画史の委員会が設立された。都市計画史研究分野において中国と日本で一緒に何が出来るか。今までは欧米と日本との比較が多かったが、中国を含む三点間で比較することで立体的にみることが出来ると思う。
●発表1「中国の都市計画研究・教育の現状と都市計画史」(傅)
中国では、2011年以前は城市規劃(都市計画)学科は設置されておらず、建築学科の下の二級学科(コース)扱いだった。2011年以降「城市規劃」が一級学科になった。現在、175の大学に都市計画のコースが置かれている。国が指定している10の主要授業科目の中に「都市発展・計画史」がある。中国城市規劃学会は1987年に建築学会から独立した。11の小委員会(学術委員会)があり、昨年、都市計画史の委員会が設立された。中国の歴史研究では、古代・近代・現代の明確な区分が共有されている。古代と近代の区分は1840年のアヘン戦争、近代と現代の区分は1949年の中華人民共和国の成立であり、都市計画史もそれに従っている。中国では、都市史・都市計画史・都市保全・建築史研究が混在していてピュアな都市計画史研究者は少ない。科研費がとりにくいことや、地図が国家秘密となっていて入手しづらいことがネックとなっている。
●発表2「近代以降中国における「城市規劃」用語の変遷」(李)
都市計画の歴史資料(学術著作、翻訳書、政府広報、計画書類)から”city planning”に対応する言葉を抽出した。城市規画、都市改良、都市設計、都市計画、都市規画、市政計画、城市設計、城市計画、都市規劃、市区規劃、都市営建、都市計劃、城市計劃など、全46語があった。cityに対応するのは主に城市と都市の2つ、planningに対応するのは主に規画、設計、計画、計劃、規劃の5つである。主要な用語で時代を区分すると、「城市規画」(1913)、「都市計画」(1918-1928)、「城市設計」(1928-1934)、「都市計劃」(1934-1956)、「城市規劃」(1956-)となる。中国では、欧米の科学技術を導入する際、中国の伝統文化に基づく学習・再構成のプロセスを経る。”City planning”についても、既存の漢字に新しい意味を与えて新しい概念を表現した。「規劃」は近代以前の中国において最も多く使用されてきた用語である。一方で、「計画」は日本からの逆輸入であった。
●発表3「The Unplanned Path of Chinese Planning Schools」(侯)
中国では、都市計画を学ぶ学部生が3万人、修士課程が3660人、博士課程が436人いる。この10年で急激に増えた。中国の都市計画教育史は、1952年以前:萌芽期、1952年から1960年:第一次ブーム、1960年代から70年代中ごろ:低迷期、1970年代から80年代:回復期、1990年代:改革期、2000年代:繁栄期と画期できる。最初の独立した都市計画プログラムは1952年に同済大学に設立された。1960年代は文化大革命で失われた時代である。1970年代は都市計画が職能として復活し、南京大学、北京大学、中山大学、杭州大学(後に浙江大学に吸収)で地理学を中心とした都市計画コースが創設された。1990年代は改革の時期で、デザインスタジオが重視されるようになった。現在、中国では都市計画関係のプログラムが300以上あるが、教育資源の問題で、トップとボトムの差が大きくなっている。
●コメント(中野)
かつて中国と日本の都市計画史が交わった点は近代以降2つあるのではないか。一つは日本の中国侵略期に中国の都市計画をかなりやっていた時代。もう一つは直接的な関係ではないが、戦災復興の際、日本の戦時中の都市計画の影響がかなりあったのではないか。その後、中国では特に土地所有の違いから、日本とかなり異なる都市計画体系が進んでいったが、北京オリンピック以降、保全・保存が俎上に上がるようになった。そこに研究の接点があるのではないか。
●コメント(中島直)
中国の都市計画史を通して日本の都市計画の特徴に気付かされるということも大事である。例えば、日本では1960年代に都市計画の専門学科が出来たが、その後は、中国と違い、都市計画の専門コースが数多く設立されるということはなかった。専門家を養成できなかったわけだが、1960年代、70年代の都市開発の時代をのりきった。専門家がいなくても、都市をつくれたのはなぜだろうか。
●コメント(渡辺)
都市計画研究をなぜやるか。自分のやってきたことは、国際的に比較したり歴史的に眺めてみたりすることで、都市計画が何なのかを理解することであった。国際比較も歴史研究も同じ関心に基づいている。日中比較で興味深いのは、中国は官僚主義だがプロフェッショナリズムが成立している点。100年前は汚かったけれども、今はきれいになりつつある東アジアの都市計画は、世界スケールで見てもとてもユニークである。都市計画のストーリーを検証してみたい。
●コメント(李)
中国の都市計画史研究はスタートが遅く、まだ若い研究分野である。1949年から1980年までは、近代(中華民国)の研究はあまりできなかった。今後、文化の多様性・歴史を大事にした都市をつくるという世界的潮流の中で、都市計画史研究は大事である。研究の方法、資料収集、厳密な分析という点でも情報を交換していきたい。
●コメント(侯)
中央官僚が引っ張っていたと言う点は似ている。というのも、中国は1949年以降ずっと計画経済のソ連を勉強していたからだ。今、中国の手本の一つは東京。中国もそろそろ都市化が終焉を迎えている。上海市の再開発の際に参考にしている。お互いの国の歴史・経験、エピソードの共有が大事である。
●コメント(会場から、渡部與四郎元都市計画学会会長)
1989年に日中交流の協定を結んだ。現在、日本・中国の関係を修復したいと思っている。例えば地球環境問題への対応を含めて都市計画をどうするか。そういう具体的な話をしたらいいと思っている。
●まとめ(中島伸)
今回が日中交流の端緒であり、互いにバックグラウンドを共有できたと思う。昨日のプレワークショップでも感じたが、都市計画史研究者として史料に向かう眼差しは、国が違っても同じである。
第2回都市計画遺産セミナー 中国の都市計画史と日本の都市計画史 学術コラボレーションの可能性を求めて
来る11月9日、法政大学で開催される日本都市計画学会学術講演会の会場にて、下記のワークショップを開催します。3月にアメリカのアラン・プラッタス氏(イェール大学教授)を招聘して開催した第1回都市計画遺産セミナーに続く、第2回都市計画遺産セミナーとなります。中国から3名の都市計画史研究者を招聘し、研究を発表して頂きます。皆様のご参加をお待ちしております。
中国の都市計画史と日本の都市計画史
-学術コラボレーションの可能性を求めて
主催:都市計画遺産研究会(日本都市計画学会学術交流組織)
日時:2013年11月9日(土)13時-15時
会場:法政大学田町校舎T413教室
※WS参加費用は無料ですが、学術講演会参加費が必要です。
登壇予定者:
中国の都市計画史研究者(発表者)
・李百浩(東南大学教授)
・侯丽(同済大学副教授)
・傅舒蘭(浙江大学講師)
日本の都市計画史研究者(コメンテーター)
・渡辺俊一(東京理科大学嘱託教授)
・中野茂夫(島根大学准教授)
・中島直人(慶應義塾大学准教授) 他
趣旨:
ストック型の成熟社会における都市計画史の役割とは一体何だろうか。従来の日本における都市計画史研究は、近代都市計画のコンセプトを生み出した欧米を原点とし、我が国における思想や技術の伝播や理解、普及、変容の度合いに関心を注いできた。しかし、これからの都市計画史研究は、欧米-日本-もう一国という「三角測量」により、豊かな計画文化の世界を描き出す方向を目指したい。本WSでは、近年、都市計画学会内に都市計画史の学術委員会を設置し、都市計画史研究を推進し始めている中国から気鋭の都市計画史研究者を招聘し、1用語と概念、2教育と職能、3遺産と保全の3つのテーマについて、日本と中国との都市計画史研究のコラボレーションの可能性を探る。
下記に本WSの案内がございます。
http://www.cpij.or.jp/com/ac/WS-2013.pdf
【アトラス03】お願いだけのまちづくり -岡山中心市街のセットバック空間-
岡山の中心市街地を歩いてみると、セットバックされた歩行者空間がつづいていることに気づかされる。岡山駅前のメインストリートである桃太郎大通りをはじめ、市役所筋、県庁通り、西川緑道公園筋という市街地の主な通りに沿って建物がセットバックされている。
これは、昭和四六年三月に「岡山市の都市美造成のための景観構想計画」に基づくものであるが、このプロジェクト自体、一般にはあまり知られていない。この計画は、「市民が街路を散策し、あるいは建物の窓から街路を眺めたときに、この視角の中で、都市をいかに快適に、又豊かに感じるかのための都市のイメージを作る」ことを目的としていた。その根底には、ヒューマンスケールにあわせた都市を創出しようという意図があったという。発案したのは、岡山市の初代建築指導課長の谷義仁であった。谷を中心とする岡山市の担当職員たちは、①歩行者空間・公共空間を確保するため、前面道路境界からの建築物のセットバック、②セットバックによってうまれた空間の緑化誘導、③建築物に付属する広告物・看板等の色彩・デザインの調整等の三項目について建築主に「お願い」することにした。
ところで、中心市街地でセットバックを行う場合、通常、総合設計制度が用いられる。その場合、セットバックによって良好な歩行者空間を設けた見返りとして、容積の緩和といういわゆる「ボーナス」が与えられることになる。ところが岡山市では、ボーナスの付与もなしに、ただ「お願い」するだけで、セットバック空間の街並みが実現したところに特徴がある。
さて、実際にセットバックを行うにあたって、建築計画があったいくつかの建物に対して依頼したものの、営業面積に直接影響を与えることから交渉は難航した。そこで谷が目をつけたのが、当時、山陽新幹線の開業にあわせて出店を計画していた高島屋であった。高島屋の店舗予定地は、桃太郎大通りと市役所筋が交差する角の一等地であり、岡山市の玄関口といってよい場所であった。セットバックによるまちづくりの一丁目一番地といってよい高島屋に対しては、岡山市長の岡崎平夫もみずからお願いに出向き、理解を求めた。その結果、高島屋はセットバック第一号として昭和四八年五月一九日に開業した。建築家・村野藤吾が設計した岡山高島屋店は、セットバックによる歩行者空間の起点として、現在まで岡山駅前のシンボル的なデパートとなっている。
この谷の目論見は見事にあたり、高島屋につづけとばかり、つぎつぎとセットバックの依頼を受ける建物が増加していった(表1)。セットバックは市役所筋と県庁通りからはじめられ、特に岡山駅から市役所に向かう通り沿いには、良好な歩行者空間が創出された。昭和五一年からは西川緑道公園筋で、昭和六一年からは桃太郎大通りでそれぞれセットバックが開始された。一方で、総合設計制度によるセットバックも行われるようになり、現在のところ市役所筋の五棟、県庁通りの一棟、桃太郎大通りの一棟が該当している。
実際に、これだけ多くのセットバックを「お願い」するにあたって、岡山市では各通りの幅員や特性にあわせたセットバック距離の基準が設定されている(表2)。なかでももっとも高い基準となっているのが市役所筋であり、一階では五メートルものセットバックが求められている。また、西川緑道公園で建物の高さにあわせてセットバック距離を変えるといった配慮を行っているほか、桃太郎大通りでは、おいでんせえ広場のまわりで間口にあわせてセットバックの距離を定めている。このように各通りの特性にあわせて基準が設定したことで、セットバックを容易にし、多くの建物で実現したのである。
ところで岡山のセットバックの形状についてみてみると、三つのタイプがあることがわかる。①建物全体をセットバック、②一階部分のみをセットバック、③ピロティに大別することができる。けれども、そのなかには複合的なタイプも存在しており、例えば、建物全体をセットバックしながらピロティを設けるなど、多種多様な空間となっている。また一方で植栽の配置といった使い方は所有者に委ねられており、一貫性のない印象を受ける。このように連続性のない雑多な建物群が積み重ねられてできたセットバックの空間は、歩行者空間としての魅力を見えにくくしているともいえる。けれども岡山の中心市街地には、「お願い」という建築主の自主性に委ねた、ほとんど例をみない都市計画手法によって、たしかに良好な歩行者空間がひろがっているのである。
【参考文献】
(1)井上亮・中野茂夫「おねがいだけの街づくり〜戦後岡山市街地における都市計画の独自性に関する史的研究その1〜」(日本建築学会中国支部、二〇一三年三月)
(2)井上亮・中野茂夫「戦後岡山市街地のセットバック形状に関する研究〜戦後岡山市街地における都市計画の独自性に関する史的研究その1〜」(日本建築学会中国支部、二〇一三年三月)
執筆:中野茂夫
【アトラス02】名古屋の百m道路 戦災復興による広幅員街路
第二次世界大戦で、名古屋市はその市域の四分の一を焼失するという甚大な被害に見舞われたが、敗戦後これを契機とした理想的な都市建設を目標に、復興計画を立案した。復興事業では、旧市街地を中心として、当初四四〇六.六haという当時の市域の約二七%に相当する範囲で計画され、①中心市街地を根本的に改造すること、②罹災地区の復興だけでなく、関連地区を含めて総合的に計画すること、③副都心の設定を計画すること、④特に保健、防火、防災に留意すること等が、基本方針として掲げられた。復興事業は、昭和二一年から昭和六一年にかけて行われ、昭和二四年に財政面から事業区域の変更が行われ、焼け残り家屋の集まる地区が除外された。最終的に名古屋都市計画事業復興土地区画整理事業は、名古屋市長を施行者として、四八の工区からなる施行面積三四五一.七haにおいて実施された。名古屋での戦災復興を指導したのは、佐藤名古屋市長の特命を受けた技監(後に名古屋市助役)の田淵寿郎(1890-1974)である。名古屋では、昭和二一年四月に第1回戦災復興予算を市議会で決定した後に、国の審査を受けることで、自前の計画に基づいた強い態度で計画の承認を得ることができた。多少の計画規模の縮小にとどまり、計画決定することができた。
名古屋市の戦災復興において、特徴的なものとして、都心部の東西と南北で十字に交差して引かれた二本の幅員百m道路がある。東西方向は若宮大通り、南北方向は久屋大通りと言う。南北方向の久屋大通りは、堀川でその延長が止まっているが、これは防災の観点から大通りと川を一体的な防災帯として捉え、さらに東西方向の若宮通りと併せて市街地を四分割することで火災などの被害の拡大を防ぐことを目途としている。百m道路だけではなく、堀川の両側にも一五m以上の幅員の道路を設定したこともこのためである。そして、百m道路には中央にグリーンベルトを設け、都市の美観にも生彩を添える遊歩帯をつくり、避難道路としてだけではなく、都市の象徴的中心を造り出したと言える。現在では、若宮大通りには、高架による環状自動車道が整備されているが、これも田淵の言では百m道路とは別の特殊道路として高速度鉄道予定地の上をとっておいたところがあり、これは高架や地下鉄を通しやすくするために考案されていた。ただの道路拡幅だけではないその先まで見据えた道路インフラ整備であった。久屋大通りには、復興のシンボルとして昭和二九年に内藤多仲設計によるテレビ塔が建設され、まで名古屋の都市景観を代表する場となった。このような百m道路は、戦災復興期には名古屋の他に広島で実現する以外には、他都市でも計画があったにも関わらず実現しなかった貴重な事例である。
また、区画整理において常に課題となるものに墓地移転があるが、名古屋の復興土地区画整理では、市街地に立地していた墓地を、名古屋市東部の東山公園に近い九二haを施行区域に編入し、二六haを墓地の換地先として移転させ、残り六六haを道路及び公園として、緑のあふれるレクリエーションの場を兼ねた平和公園に整備した。墓地の集団移転は本来困難を伴うものであるが、名古屋では寺院の各派代表者から成る名古屋市先生復興墓地整理委員会を結成し、各寺院と交渉することなく、委員会との折衝の中で集団移転を進めることができた。これにより名古屋では東部にまとまった緑地をとることができ、これは現在の緑のインフラとして貴重なストックとなっていると言える。このように名古屋では、計画理念を実行していく上で、市民の理解獲得のための方法に長けた計画者たちの実践によってもたらされた都市計画遺産と言えるだろう。
【参考文献】
(1)名古屋市都市局「なごやの躍進 復興土地区画整理事業完成記念」同発行、一九八一
(2)田淵寿郎「或る土木技師の半自叙伝」中部経済連合会、一九六二
(3)米谷栄二「名古屋市戦災復興都市計画事業に関する研究(中間報告書)」一九七〇
【図版出典】
図1 名古屋市「戦災復興誌」名古屋市計画局発行、一九八四年
図2 筆者撮影
執筆:中島伸
【アトラス01】 松江の官庁街 -島根県庁周辺整備計画の遺産
松江の官庁街の中心に建つ現在の島根県庁舎は五代目を数える。四代目県庁舎の焼失後、復興対策特別委員会が設置され、行政機能の多様化によって分散していた施設を集中させるという基本方針が立てられた。設計者として白羽の矢が立ったのが、当時、建設省営繕局に勤務していた安田臣(かたし)である。安田は旧三之丸の敷地のできるだけ北側に本庁舎を配置し、周辺から松江城(国指定重要文化財)に向けた眺望に配慮した。このため、高さを地上六階に抑えるとともに地下を設けている。一方で、松江城を含む城山公園と一体化させるために、県庁舎の前に庭園が設けられた。庭園の設計を担当したのは、重森三玲の息子の重森完途である。一方で、庭園の南側に隣接して博物館が設置された。博物館の設計を担当したのは、新進気鋭の若き建築家・菊竹清訓であった。こうして県庁周辺の基本構成ができあがった。
このころ官庁の一団地建設が昭和三一年に改正された「官公庁施設の建設等に関する法律」のもとで、各地で計画されようとしていた(霞ヶ関、盛岡、秋田、名古屋、静岡等)。島根県では最終的に同法は適用されなかったが、県政に強いリーダーシップを発揮した田部長右衛門知事のもとで県庁周辺整備計画が開始された。
昭和三六年二月二〇日に開催された県議会で県庁のすぐ裏にあった刑務所の移転が決定され、この跡地利用が官庁街再編の発端となった。昭和三九年九月二一日に開催された県議会で田部は文化会館と図書館の建設について言及しており、その調査に向けた予算措置を行っている。そして昭和四〇年四月に当時、中国地方建設局長だった大塚全一と独立して事務所を構えていた安田臣と県当局とで協議が行われ、県庁周辺整備委員会が発足した。同年八月一九日に第一回県庁周辺整備委員会が開催されており、委員には大塚と安田に加え、専門家として武基雄、松井達夫という早稲田大学教授が名を連ねた。第一回の委員会では、県民会館の位置が決定され、県庁舎との関係から、安田が設計を担当することになった。安田は県民会館の西側のファサードを県庁舎と一体的なデザインにすることで、景観の統一を図った。県民会館は昭和四三年九月二五日に竣工した。第二回委員会は昭和四一年一月一九日に開催された。旧刑務所跡地の利用について審議され、図書館の建設が決定された。同年七月二八日に開催された第三回委員会でも引きつづき跡地利用について審議が行われ、武道館の位置が決定された。図書館と武道館の設計を任されたのは、さきに博物館の設計を担当した菊竹であった。図書館はL型を原則とする平面構成となっており、城山公園の散歩道からその特徴的な姿を見ることができる。島根県立図書館は昭和四三年一〇月一五日に、武道館は昭和四五年七月一五日に竣工した。昭和四四年一月二九日には、県庁周辺整備元委員懇談会が開催され、旧委員に菊竹を加えて武道館、議事堂別館、松江合同庁舎の建設に関して意見交換が行われた。この懇談会の議を経てそれぞれ着工し、いずれも昭和四五年に竣工した。
一方、県庁舎の前には、市所有の土地が残されており、消防署等の建物が建っていた。当時、多くの批判があったというが、田部知事の英断で県庁舎前の土地すべてを買収し、庭園の第二期工事に着手した。造園も引き続き重森によって行われた。重森は、島根県の海と雲と山と平野をテーマに設計しており、松をモチーフとしながらも日本庭園から脱却したデザインを施した。この庭園が存在していることにより、松江城と、県庁舎・県民会館、博物館(現島根県公文書センター)等の県庁周辺整備計画の遺産とが一体化する空間が創出された。伝統的なイメージの強い松江ではあるが、戦後モダニズムの建物群が集積する官庁街も都市を代表する景観をつくっており、島根県では現在、県庁舎の耐震改修工事を行うとともに、その継承が模索されている。
【参考文献】
(1)島根県『島根県庁周辺整備誌』(同発行、一九七一)
(2)中野茂夫「近現代松江の官庁街形成史〜官公署・文教施設の配置と県庁周辺整備計画に注目して〜」(日本都市計画学会『都市計画論文集』四七−三、二〇一二)
執筆:中野茂夫
第1回都市計画遺産セミナーのお知らせ Civic Art: its Legacy and Contemporary Relevance?
来たる2013年3月8日に、都市計画遺産研究会主催の第一回都市計画遺産セミナーを開催致します。今回は、イェール大学教授のアラン・プラッタス氏を招聘します。「都市計画家、都市デザイナーにとって、都市計画史はいかなる意味を持つのか」を「シヴィックアート」をテーマにご講演して頂きます。下記、詳細です。
>>第一回都市計画遺産セミナーのポスターはこちら。
Planning Heritage Seminar #1
Special Lecture
Prof. Alan J Plattus(Yale University)
Civic Art: its Legacy and Contemporary Relevance?
第一回都市計画遺産セミナー
アラン・プラッタス氏(イェール大学建築学部教授)講演
『シヴィックアート:その遺産と現代的意義』
■日時:2013 年3 月8 日(金)14 時~ 16 時
■会場:東京大学工学部1 号館3 階建築学科会議室 (東京大学本郷キャンパス)
■使用言語:英語・日本語 ※ご講演は英語で行って頂きますが、逐次通訳が入ります。
■定員:30 名(事前申し込み先:中島直人(慶應義塾大学)naoto@sfc.keio.ac.jp)
■趣旨:
歴史家は歴史を書くために歴史に没入します。では、都市計画家や都市デザイナーは何のために歴史に向き合うのでしょうか。 それは都市の現在、都市の未来のためではないでしょうか。本セミナーでは、イェール大学建築学部で都市デザインの教育に携わり、イェール・アーバンデザイン・ワークショップを設立し、地域コミュニティとの協働を基盤とした都市デザインの実践を行ってきたアラン・プラッタス教授を招聘し、「過去のアーバニズムにどう現代的な意義を見出すのか」というテーマでご講演を頂きます。プラッタス教授は、1922 年に出版されたワーナー・ヘゲマンとアルベルト・ピートによる名著『アメリカのヴィトルヴィウス 建築家のためのシヴィックアートの手引き』の復刻や、イェール大学のお膝元であるニューヘイヴン市のシ ティ・ビューティフル運動時代の傑出したプラン『ニューヘイヴン計画1910』の復刻を手がけてこられました。一方で、ニューアーバニズム運動にも最初期から関わり、コネチカット州の中小都市を中心に、アメリカ内外でニューアーバニズムの実践を展開されています。「シヴィックアート」をキーワードに、歴史への言及と実践活動との関係についてお話し頂きます。
■アラン・プラッタス氏の詳しいプロフィールは下記をご覧下さい。http://www.architecture.yale.edu/drupal/people/faculty/plattus-alan-j http://www.architecture.yale.edu/UDW/profile/alan.html
■都市計画遺産セミナーとは?
都市計画遺産研究会(日本都市計画学会共同研究組織)は、「我が国の近代都市計画が現在までに生み出してきたもの、そしてその中で将来に遺していくべきものは何か」を問い、それらを新たに提起、定義すべき「都市計画遺産」(planning heritage) という概念のもとで整理し、今後の都市づくりにおける扱い方について検討していくこと)を目的に、2010 年4 月より活動を開始しています。都市計画遺産研究公開セミナーは、都市計画遺産研究会が主催する公開研究会で、毎回、「都市計画史」や「都市の歴史」をテーマに、国内外から講師をお呼びし、「都市計画遺産」についての知見を磨いていきます。
ぜひ、ご参加下さい。
学会誌に都市計画遺産研究会関連の論考
報告が遅れてしまいましたが、日本都市計画学会の学会誌『都市計画』に2号連続して、都市計画遺産研究会メンバーによる研究会活動に関連する論考が掲載されました。
1 田中暁子・中島伸「都市計画史研究がまちづくりに貢献する可能性」『都市計画』、298号、pp.72-75、2012年8月
2 中島直人「『三陸海岸都市の都市計画/復興計画アーカイブ』に学ぶ」『都市計画』、299号、pp.84-87、2012年10月
是非、ご覧になって下さい。
海外調査報告-第9回都市計画遺産研究会
5月11日の18時から、東工大にて、第9回都市計画遺産研究会を開催しました。昨年度から開始した科研「「都市計画遺産」の概念構築と実態把握」の一環として、3月に実施した海外調査について、その成果を、津々見、佐野、西成、中野、中島直、初田が報告しました。オーストラリア、イギリス、アメリカでのplanning heritageに関する学協会の取り組みに加えて、各地の都市計画遺産が、たくさんの写真とともに紹介されました。文化財の拡張という動機から、都市計画のプレゼンテーションという動機まで、それぞれの国で事情は異なりますが、都市計画が生み出してきた都市空間に「遺産的価値」を見いだそうとする動きが、確かに目立ち始めています。都市計画史の将来目指すべき方向の一つとして、この研究会では都市計画遺産を追求していきます。