成熟社会 都市ストックの再編

都市風景学/都市保全計画 【都市の記憶力】

記憶力豊かなまちを目指して

1999年、大学院修士1年生の頃、私が所属する研究室では、岩手県釜石市の中心市街地の再生のための調査や提案に取り組んでいた。東北新幹線と在来線を乗り継いで5時間あまりの遠い道のり。夏休み中の調査をメインに、たしかその後の補足調査や最終報告会などで、3、4度ほど釜石を訪ねた。東京育ちの私が真剣に触れる初めての地方都市がこの釜石のまちであり、その独特の風景は私にとってとても新鮮だった。とりわけ、釜石らしさとして強く印象に残ったのは、まちの背後の急な崖の上方に設置されていた、1896年の明治三陸津波の際の津波の最高到達点の表示板であった。それは自分が立っている地面よりもはるかに高いところにあった。地面=大地とは異なる、見えない水平面=明治三陸津波の最高点ラインが、目の前の風景の中に確かに存在している、そのことがとても不思議であった。ここでは高さは他のまちとは異なる意味を持っていた。そのことを意識して初めて、釜石というまちの風景が発するメッセージが見えてきた。

2009年の3月、ほぼ十年ぶりに釜石を訪ねた。私が十年前に見たと記憶していた明治三陸津波の最高到達点の表示板はどういうわけか見当たらなかったが、1933年の昭和三陸津波の後の復興事業により、避難場所として明治三陸津波の最高点よりも高い位置につくられ、その後、眺めのよい散歩道になった通称「避難道路」や、津波の際に4階以上が避難場所となる海岸近くの津波避難ビル、そしてそれらへ向けての避難を促す看板などが、やはり釜石の風景に潜む高さの特別な意味を教えてくれた。しかし、このときの訪問で一番印象に残ったのは、まちの外れのあたりでたまたま見つけた、民家の脇を縫っていく避難経路であった。青い避難誘導サインが、海岸通り沿いにあるガレージ脇に付属する小さな外階段を指していた。サインの指示通りおそるおそるその外階段を登ると民家の庭に出た。更に庭の向こうに見える次のサインに従って、庭を抜けて小さな屋外階段を上っていくと裏山に出た。裏山の山道を先に行くと、「一次避難場所 佐々木家稲荷」という表示のある避難場所にたどり着いた。通常の避難場所と違って、街路からアクセスするのではなく、民地の中の通り抜けを前提とする避難経路ということ自体が珍しかった。このまちには、堤防や津波避難ビルなどの大きなインフラだけではない、津波からの避難を可能とする小さくて細やかなインフラがたくさん仕込まれていると感じた。そのスモールインフラたちもまた、釜石の独特の風景を確かにかたちづくっていた。

2011年4月、6月、8月、東日本大震災後、釜石を何度か訪ねた。私が初めて接したあの印象深い風景は、津波によって大きく様変わりしていた。復興のお役に立ちたいと思い、復興計画の立案に向けたワークショップのお手伝いをしたりしたが、その合間に、二年前に見つけた佐々木家稲荷神社への避難経路を再訪しようと何度も試みた。しかし、どうしてもまちはずれにあったはずの避難経路を見つけることができなかった。民家や外階段、避難誘導サインなどは全部流されてしまい、もはや跡形もないのかなと観念した。

2012年1月、研究者仲間たちと釜石を訪ねた。ここで、ようやく佐々木家稲荷への避難経路に再会することができた。海岸付近が地盤沈下していたので、震災後、しばらくは通行止めになっていて、たどり着けなかったのである。避難経路の入り口のガレージ上にあった建物は津波で流されてしまっていたので、危うく見過ごしてしまいそうであったが、よくよく目を凝らすと、脇の小さな外階段が残っていた。

二年前と同じように、いや二年前以上に緊張して階段を上ってみた。以前は民家の庭であった場所は、民家がなくなってしまって単なるガレージの屋上に変わってしまっていた。ただその先の避難誘導サインは健在であった。サインに従って、経路の終点にある一次避難場所まで歩いてみた。すると、二年前には気づかなかったのだが、終点の手前を脇に少し入ったところに、朱色に塗られた小さな祠=佐々木家稲荷神社が鎮座していた。そして、この稲荷神社の小さな祠の前に掲げられた、佐々木家当主(1996年当時)の手による小さな案内板があった。今回の東日本大震災の津波の被害を受けてなのか、一部破損してしまっていたが、内容を読み取ることはできた。文久2年に佐々木家の先祖がこの山を譲り受けた時から稲荷が鎮座していたこと、この案内板の文章を綴っている当主の父親で、廻船問屋として成功をおさめた佐々木正兵衛氏以来、氏神としてこの稲荷を大切に守ってきたこと、そして、「先人達は数度の三陸大津波、昭和二十年(破損)の艦砲射撃等幾多の災害も此の地に於て難を逃(れた:破損)」こと、などが説明されていた。今回も、ここまでは津波は到達しなかった。佐々木家が大切にし、そして、一般の人もそこに逃げ込めるように開放していた避難場所とそこへの経路は、また人々の命を救ったのであろう。そして、小さくて細やかなインフラの風景は、再生への手がかりとして残された。

釜石の風景には、過去の津波とそれらからの避難行動や復興の様々な履歴が刻まれている。それは今回のあれほどの津波でも、決して流され、消し去られることはなかった。釜石の風景は災害のたびに変わり続けてきたのだろう、しかし、悲しくつらい記憶も、その悲しみからの回復の記憶も、そして必ず再び訪れる幸せな記憶も、全部、風景に記憶してきた。だからこそ、風景がとても「人間らしい」のである。おそらく、私たちの東京の風景も同様である。その風景はたくさんの記憶を積み重ねている。東日本大震災の復興でも、東京の風景づくりの現場でも共通しているのは、そうした風景が宿す人間性を守り育てていくことの大切さだろう。「人間らしい」風景を求めることは、すなわち、記憶力豊かなまちを目指すことである。

(2012年3月)

最近の仕事

風景論
・中島直人(2012)「郊外の風景 文明・文化の表象としての生活像」 (西村幸夫・伊藤毅・中井祐編著『風景の思想』、学芸出版社、2012年6月出版予定に所収)
・『都市空間の構想力』(学芸出版社、2012年内出版予定)

景観計画の運用
白川村景観審議会
杉並区まちづくり景観審議会専門部会

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