成熟社会 都市ストックの再編
11月 29th, 2010

まちづくり論(2010年度春学期)レポート講評

大変遅れてしまいましたが、2010年度春学期の「まちづくり論」のレポートの講評です。

■レポート課題

「都市計画」と「まちづくり」の関係に着目しながら、ある特定の都市、まち、地域、界隈の「都市計画」及び「まちづくり」の成果について、自分なりに評価を加えよ。

※なお、「都市計画」と「まちづくり」の定義については、本授業を参考としつつ、レポート内に各自で明確に示すこと。
※対象として取り上げた都市、まち、地域、界隈の名前を明記すること。
※地図や写真、スケッチ等を積極的に使用すること。

分量:文字数2000字~4000字/A4・4枚以内

■全体講評

 課題を普通に読めば、最低限、「都市計画」と「まちづくり」について定義を行い、かつ両者の関係に着目しながら考察を進める必要がある、ということは理解されるはずですが・・・残念ながらそうした課題にしっかり答えているレポートは全体の2割程度でした(つまり、今回はレポート課題にしっかり答えてさえいれば、Aとなったわけです)。 また、よく見られたのが、「都市計画」や「まちづくり」を定義せず(あるいは定義はしたがその定義と関係なく)、例えば、行政が出したパンフレットやウェブページの「○○のまちづくり」とか「○○計画」といったタイトルだけで、それを「都市計画」である、「まちづくり」であると判断し、その内容について、そうしたパンフレットやウェブページからの抜粋を紹介する、といったものでした。
  これは「まちづくり論」全体を通したポイントですが、「都市計画」や「まちづくり」、そしてその両者の関係についてしっかりと概念規定を行うことで、この都市、この地域をかたちづくる、あるいは守り育てる「仕組み」を構造的に把握することができる、ということが重要なのです。今、世の中では、「○○のまちづくり」や「○○計画」が溢れていますが、それらはそれほど深い意味でそう名付けられているわけではありません。自分の頭で、自分の見方で、そうした様々な「○○のまちづくり」や「○○計画」の本質、性格を評価しなくてはいけません。
 言葉をしっかりと定義する、また例えば「都市計画」や「まちづくり」の関係性を考察する、というのは、この世界の見方、切り取り方、つまりフレームワークを設定するということです。それが唯一正しいフレームワークというわけではないわけですが、こうした何らかのフレームワークを設定しないと、いつまでたってもこの世界を正確に認識することはできないでしょう・・・。レポートは論文の一種です。論文とは、自分なりに設定したあるフレームワークのもとで、物事を分析したり、評価したり、提案したりするものです。

■優秀レポート
(著者の承諾を得たものは、公開いたします)

以下の二編は、「都市計画」と「まちづくり」を自分なりに解釈し、その関係についてしかっりとした考察を加えています。その優れた筆致も含めて、強く印象に残ったものです。

●清水信宏
「荻窪駅北口をめぐる「都市計画」と「まちづくり」の評価、そこから見えてくること」

【講評】私自身が荻窪北口の駅前の焼き鳥屋の光景に愛着を覚えていた、という事実は抜きにしても、このレポートが設定した「人々の心象風景やノスタルジーに訴えかける何かは「都市計画」と共存しうるのか」という問いかけは魅力的である。「まちづくり」による地域のコミュニティの醸成、そのプロセスは、そこで生きる人たちの「生き方」と繋がる、そしてその「生き方」の構築の延長線上において初めて、「都市計画」との有効的かつ友好的な握手がありえる、という考察は、なるほどと思わせるが、やや寛容に過ぎるというか、甘い話ではある。実際には、都市の中で、次々と大切な心象風景が失われ続けている。もう少し強い論理の構築が必要なはすだ。なお、最後に、自らの立場(アカデミックな場所にいる人々)で何ができるのか、について考察を加えている点も、評価したい。当事者であろうとする姿勢、意識が、レポートを引き締めている。

●亀元啓道
「ベルリン/ミッテ地区」

【講評】一つの詩のような、あるいはまさにベルリンの地下のクラブで流れている、強くしなやかな、心地よい反復を繰り返す低音のグル―ヴが紙面の裏から聴こえてくるような、そんなレポートである(言い過ぎか)。「都市計画」と「まちづくり」は相反するものではないとして、目標と目的を持った「都市計画」と、予想できない、自然発生的な「まちづくり」の両者の並立が必要であるとする。「都市計画」は「常に何かが欠けている」存在だからこそ、「まちづくり」の契機を孕んでいる、という理解は、正しい。まちをつくるとは、確かにそうしたプロセスだ。ただし、両者の関係は時とともに、変化していってしまう。自然発生的であったものを人々がプロセスとして、モデルとして意識した瞬間に、それは自然ではなくなっていってしまうことが多々ある。さぁ、どうしようか。

以下の二編は、内容については物足りなさが残るものの、まちの変化や歴史に着目し、自分なりにしっかりと評価を試みている姿勢に好感を持ったレポートです。

●遠上春香
「湘南台 今と昔」
【講評】写真を用い、実際のまちの具体の変化に基づいて立論している点が特徴である。湘南台では、学生をターゲットにしたまちづくりが進んだ一方で、高齢者の方などにとってはあまり住みやすいまちになっていないこと、街並みが明るく統一感のあるものへと磨かれ、車道が広くなり交通が便利になった一方で、よく育っていた街路樹がなくなってしまったことなどを指摘しているが、様々な人の立場からまちを見て、様々な価値同士の相克を捉えながら、それらを調整し、まちのありかたを構想していくことは、都市計画やまちづくりの基本である。SFCに通う今後の3年間、こうした視点から湘南台のまちに注目し続けて欲しいし、もし、やる気があれば、ぜひ、自らまちづくりのひとつの主体となって活動してみて欲しい。

●藤野祥佑
「新宿区歌舞伎町のまちづくり」
【講評】歌舞伎町のまちの成り立ちから、現在の「歌舞伎町ルネサンス」までを視野に入れ、民間と行政という主体に着目しながら、歌舞伎町のありように自分なりの評価を加えている点が良い。これまでの経緯の中で、「「まちづくり」が「都市計画」に負けた」歌舞伎町では、現在も「行政主導」が目につき、「民間」の姿が見えないと書く。しかし、ここでいう「民間」とは一体誰のことだろうか?土地所有者、商業者たち、国内外の資本、来訪者…様々な人々が歌舞伎町に関わっている。そうした状況において、「まちづくり」の主体はどのようにあるべきか、もう一つ、考察を深めて欲しいところである。
以上です。

by naoto.nakajima | Posted in 授業全般 | まちづくり論(2010年度春学期)レポート講評 はコメントを受け付けていません |

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